未来社会と教育 | JOKER.松永暢史のブログ

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経済、政治、教育・・・と第二次戦後続いて来た既存のシステムが古くなってしまったーだから新しいものに作り替えなければならない、というのが今の日本人社会全体に共通通奏低音するムードであろう。しかし、そこにすでに長い間その決まりや地位で生活して来た人たちがいるから、その対象規模が大きければ大きいほどそれは困難を極めることになる。
しかしもし結果的にそれを放置すると、それはいつか自ら腐敗して崩壊して行くことになるだろう。そこで、いつか腐敗して崩壊することが分かっているものにしがみつくのは間違っているから、既存システムとは関係なく自ら新しい生き方を実践し始める者も現れる。
問題は、「何とかなる」「何とかしてくれる」と考えて何も行動に移さない人たちであろうが、喩えは悪いが災害の可能性が高まっている時にその防災準備を怠る者と同じということもできよう。
「システム」が変わる時には「価値観」も変わらざるを得ない。
そもそも変容混迷化する時代の中で、人々はその心の新たな置き所を探し求め始めている。
職と衣食住—これは贅沢を言わなければ長時間労働しなくても手に入ってしまう。
文化とコミュニケーションと自己向上—これは個人の意識と実践の問題である。
どのことも未来を見据えてのことであるには変わりはないであろうが、教育は正に未来を見据えて行なうものである。
教育について語るためには「未来観」がなければならない。
とはいえ未来は不確定であるから、いくつかの「想定」をしなければならない。
—若者にとって未来社会は苦しくなる?
未来社会に適応できるように経験を積んだ者は苦しみが少ない。
未来社会で都会生活をする場合、自己の能力を活かしてしかも自分で時間調整して充分な職を手にする能力が必要だ。資格試験に備えてある程度の学力を持ち、自己の中に特殊性を見つけるというよりも、自己の中に特殊性の芽となるものができるだけ多く顕在するように成長した者。できるだけ多くのことの上達への努力を惜しまなかった者。そして恊働やコミュニケーションの能力が欠かせない。
未来社会で農村部や自然に近い所で生活をする場合、自然のものに対する感性が大切になる。もし若者が農村部で農業を志せば、なんとか食べて愉しくやっていくぐらいの生活は簡単に保証される。ここでは圧倒的に若い力不足である。ここでも大切なのはコミュニケーションと恊働の能力である。「共生」と言っても良いかもしれない。後は時間的に余裕がある生活の中で必要なものはかえって文化的なもの、音楽や芸術や物作りに携ることである。
未来社会では、科学のさらなる発達により、たとえば日本のような国では農村部で食料生産を自分で行なって生きることは簡単なことになっているだろう。電気、熱エネルギーは自然環境から簡単に得られるようになっていることだろう。
たとえば上記の二つのケースのどちらにも対応できるようになっていればその者は一般的に幸福になりやすいことになり、親はそのための教育をその家庭なりに独自に考えて行くことになる。
自分たちなりにいくつかの未来社会の有り様の可能性をイメージ・考察して、それに基づいて自分たちのする教育の方向性を自分たちなりに考えて行く。
実は、私たちが世代交代する子どもたちに最も与えるべき力はこの力なのかもしれない。