メデイアがいよいよ一つの時代を終わりつつあるようだ。
最近では週刊誌が作り出したどうでもよいようなスキャンダルをテレビや新聞が繰り返し追従する形になっているが、ネット上はもっとひどい。他人のネタに意見を加えるだけ。
断末魔。
旦那妻。
ベッキーなんて知りたくない
清原なんて忘れていたい
乙武なんておったけか
おったまげるが、「ネタ」がないのである。
伝えるべきニュースを自分で掘り出してくることができない。
それは「観点」を持つことができないせいではないか。
じゃなければ「圧力」がかかるため?
受ける側はもう喰らい過ぎで情報の重要度の識別はできない状態である。
「編集長」はそこをつかんでおる。
だから政権党批判の「アドバルーン」も揚げる。
「マスコミ」はその次元にすらも至ることができない。
彼らは受容したことに反応してみせるだけで、自ら想起した疑問点について追求報告すること=ジャーナリズムはしない。
というよりも、すでにそんなことができない人たちが「メディア」中枢を形作っているのが現状なのかもしれない。
それがそもそもの「マスコミ」の「仕事」だったのかもしれない。
いやメディアをなめてはいけない。メディアこそが我々自身の姿を映し出す「メディア」なのである。
わが国の高学歴層において、想起する能力が著しく劣っていることは、もはや諸処の局面で明らかになっていることである。
想起すると、同時に「観点」が得られる。
しかし、もし「想起」しなければ、リアルに「観点」が識覚されることはない。
そもそも「観点」が成立しなければ何も認識できないのである。
ある意味ふつうの子どもと同様、景色をボワーッと眺めている状態に等しいことになる。
お金や社会的地位のためのこと以外はしっかりと考えることができない人、そういう人たちが、人の下ではなくて人の上の立場に立つ人になっているのはいささか妙なことである。そうしてそれの叶わぬ人たちは挙足取りを楽しむ。
自分が嫌にならないのであろうか?
以前に着想力の高い人たちを取材していてわかったことだが、彼らの共通点は、小学校高学年で毎日思いっきり友だちと遊んだ人たちであることだった。アタマがいつでも遊べる習慣があるので、何でも簡単に思いつけるのである。これは、ノーベル賞受賞者たちも同じである。子どものとき良く遊んだ者が、着想力を伴った創造的的人間に成長するのであり、そうでない者は受容・処理能力のみ高い、精神性の希薄な「優秀者」になれるのみ。
これはこれまでの文科省政策同様、「悲劇」ではなく「喜劇」である。
アタマが悪い人間のしたことを悲しんでもしかたがない。
するべきことは「笑い」によって次の自己覚醒を呼び込むことである。
実は今文春編集部で活躍する者は、電通同様、「裸踊り」も全然平気な明治立教レベルのわりと元気の良い者たちなのではないか。
でも彼らだって、「マトモ」であれば、その「仕事」をずっと続けて行くことは、金のためでなければ、バカらしくてできないことだろう。
ある党を勝たせるためのメディア戦略ビジネス?
高学歴者でそれが平気で「仕事」としてやれるのはいったいどんな連中なのか。
やれるとしてもずっとそれをやり続けることはできない。
アタマが良ければ良いほどバカらしくなる。
かといって、今さら「学者」には、「変身」できない。
だいいちそもそも着想力があるのなら、ある程度の修行を積めば自分で仕事を作り出すことも可能なはず。
ナニ?その能力がないからその仕事をしている?
なんだアンタも「洗脳」されているのね。
自ら着想発見するのではなく、上からの命令とタレコミに準じている?
これまたご苦労さんなこった。
お体と精神をお大事に。
もっと面白いことを考えよう。
もっとオモロいことを考えたいが、「冗談」の波動のカミサマは、こんなことを勝手に書かせる。