異なる「認識」について | JOKER.松永暢史のブログ

JOKER.松永暢史のブログ

教育相談、執筆・講演依頼は松永暢史公式サイトよりお願いします。

自転車に乗るときはいつもと異なる思考が可能だが、東京女子大の西側の桜並木一方通行路を走りながら、これを出たところのアテスウェイで、ケーキを買っておくと今日仕事が休みの家人たちが歓ぶかと思ったが、ケーキ店が月曜日で休みなことを思い出す。
下らない。こんな思考は、すれ違う人の有様をいちいち識別しようとすることと同様に「無意味」であり、それよりここでするべき思考があるはずだと思って、目を上げる。背後の空が青い上を白い雲群がゆっくり移動して行く。葉を落としたけやきの木の梢は、あたかもそれと同じ物が根として地中にあるのが逆さまに生えているかのような印象を与える。
シュタイナーが言ったかのように、思考と認識と霊界は同じ物質でできているのだと感じることもできる。
より意味があることを想起しようとする決意がなければ、いかなる人間としての「プライド」も失せる。
流れに身を任すことを選択した時、生物ではあるが「人間」ではなくなる。
必要と不必要。
農業生産とサービス産業。
見えてくる。見えてくる。
人間に本当に必要なものが。
「主体的」であることは人間存在としての「生き残り」を目的にすることではない。
それは今ある状態を「過越」して新しい次元に移ろうとし続けることである。
これにできるだけ気づかせないことが「政治」であり、これにできるだけ気づくようにするはずなのが「哲学」や「宗教」である。
あたかも自然環境にある動物たちに対するように、「弱い人間」に対処する。
ベッキーなんか知りたくない
スマップなんかも知りたくない
清原なんて忘れていたい
でも「弱い人間」たちのためにこれは流される。
その反応を狙われて、その刺激通りに反応する。
これは、こちょこちょと口にされただけでくすぐったくなる子どもと同じである。
何で一週刊誌がすっぱ抜いたどうでもよいことを、テレビとネットが長時間追加報告するのか全く分からない。
でももう、そんなことについて考えることさえ意味がないことなのだ。
衣食住なんとかなれば、あとそこに必要なのは「情報」ではなくて「生き方」のはずである。
多様な生き方の可能性をかえって狭めるものが「情報」である。
「情報」を受ける自分のアタマの状態をこそ鑑みるべきであり、今ある認識とは別の認識が可能であることを忘れてはならない。


完膚無きままにやられたブロッコリー

完膚無きままにやられた筆者ブロッコリー
(花実は収獲して食べた)