教育相談で杉並マンション15階に住むご家庭を訪問した。
32階はともかく、15階ならまだなんとかなるかもしれない。
子どもたちの様子は悪くない。
それどころか、元気に、面白い雲が見えるたんびに報告してくれる。
晴天で、スカイツリーも東京タワーも見える。
中野サンプラザから見える横浜ランドマークタワーは、マクハリのマークさんの家のようには見えない。
子どもたちが教えてくれる。
「今、三つだけ雲が出てるよ」
「今、他の雲を飲み込むまるで怪獣のような雲が出ているよ」
彼らはテレビ画面の代わりに絶えず空の変化を観察しているのである。
この親は、「分かっている」。
子どもたちが雲のことを報告するのは、ふだんその親が適切に反応するからであるに違いない。
ふと、この子たちと月が出ている時にその感動を共有したらどうだろうかと思った。
さらに一緒に焚き火をすればどうかと思った。
兄弟が仲が良いのは、兄が活発な弟の相手を良くするからである。
子どもたちには無限の可能性がある。
たまたま生まれた一度だけの個体の「可能性」を限りなく実験する「権利」=「自由意志」がある。
世間的価値の次元よりはるかに開けた次元で、子どもたちの可能性を宇宙に向って打ち上げる。
そうしようとすることこそが教育の本当の姿であるはずである。
僕たちはダマされて来たのである。
こともあろうにその「教育」に。
僕たちは分かっていなかったのである。
「教育」のその国家的「もくろみ」が。
でもこれからは違う。
凡人の私が知ったのであるから、これからは違う。
誰でも知る。
たった一回の可能性を秘めて生まれて来た子どもたちの「可能性」を、最大限に向上発展させようとすることが「教育」の本線なのであると。
だから、他との余計な「比較」は意味がない。
兄弟ですら意味がない。
子どもを、人間を、「型」にはめる時代はすでに過ぎ去った。
もはや、「野性」であればあるほど貴重な魅力である。
子どもが自ら育つことをアシストすることが「教育」である時代になった。
このことが分からない親の子どもは、時代遅れの苦しみを享受してやがて「摩耗」する宿命にあろう。
教育機関と受験業界がどのような次の「金儲け」を考案提示してくるのか興味津々である。
ついでにどんな「天下り」の場所の奇想天外なアイデアが現れるのか、こうなると実に楽しみとしか言いようがない。
以上当然のごとく、「週刊文春」の遥か上を行く「冗談」で書いた。
つもり。なーんちゃってね。