「想起」できる人は勝手に何かやるであろうが、表現する内容を想起できない人は、「想起」しなくとも共有できる「娯楽」を与えられる。
想起できなくとも、「対象」が提供されれば、それに感情的な反応を行なえば、自己表現の「代償」になる。
「敵」を想定し、これがこちらに害悪を及ぼしているという情報が提供されれば、人はこれに対して怒りを覚え、拳を振り上げて叫びたくなる。
これは、生活や仕事などでストレスを溜めて、しかも自分で怒るネタを見つけられない者が、「敵」たる対象を提供してもらうという形であろう。
人は自分の状況が苦しくなると、「敵」を想定してそれと戦おうとする精神状態に陥りやすい。いじめ同様、ストレス発散には「対象」が必要というわけである。
さて、「場」であるが、これはそもそも自然状態ならば、どこで何をしようが動物と同じなのであるが、現代社会では、「場」は探し求めるものであり、場合によっては自分の表現に適切な場を見いだすことが困難であることも多いのだ。
だから、「場」を提供するビジネスが隆盛する。
もし「想起」したとしても、そのことの実現が能力や資金的に不可能であれば、すぐに次を「想起」しなければならない。
だから、「想起」それ自体が商品として提案される。
何かを表現するためには、自ら何かを想起し、自らそのための場を作り、そこに対象を迎えなければならない。
献立を考え、調理を行ない、人に食べさせる。
しかし、それには「余計」な時間やお金はかからない。
そこで費やされるのは意味ある時間である。
結果的に子どもから「想起」する能力を奪うことになる学習や教育は、真の人間幸福を顧慮していないことになる。
子どもに意味のない時間を与えていることになる。
最近これもずいぶん理解者が増えているそうだが、このブログの読者でも、まだ子どもを連れて火を燃やす所へ行ったことがない人は、この誤りに気づいていない人たち、もしくは今のところ感受性が足りない人たちということになるのか。
火が「想起」の元であることは想像に難くない。
しかし体験しなければ分からない。
