TPP締結を見て、農家の政権支持率が18%に低落したとのこと。
これが次回投票に現れるとは限らないが、やはり農民は自民党に期待していたのだ。「信じて投票した自分たちに悪いことをするはずがない」と。
麻生氏の失言「わからないうちにやってしまう」が、そうはならなかったのは、やはりメディアの報道も大きかったことだろう。
ところで、ここのところ医者、会社員、パート労働者、バイト者、高校生と多くの人たちに「取材」しているが、彼らのほとんどは、この社会の仕組みとして、利潤を追求するためにやや高い商品価値を設定して、そしてそれを生み出す労働者にそう多く賃金を払わないようにすることは致し方のないことであると言う認識である。そこにおいて、たとえダマされても金を払い、安い賃金に甘んずるとしても、それが「納得」していることであれば「問題はない」という認識である。つまり、利潤追求のためにダマす人は当然いるが、それに大きくダマされるかどうかは本人の判断次第とのことである。利潤追求とはダマすことでもある。したがって、ダマされる人が悪いのであり、ダマされないようにしている人が正しいという結論になる。
では、「ダマされない人」とはどのような人かと言うと、「自分で判断行動できる人」、つまり、「主体的な人」ということに概ねなるようである。
もしも、ダマされやすい人が経営者になれば、その人は財産資本を失うのが必定である。
消費する側がダマされにくくなると、多くの産業が利潤を上げにくくなる。
これは今回のTPPの結果に見る通り、政治においても同様である。
人々がダマされないように事実を報道しようとするのはジャーナリズムの仕事であるが、ジャーナリズムは商品紹介情報、つまり広告を掲載することによって利潤を上げているから、どうしても記述が企業寄りになる。東芝の事件を「粉飾」とは書かないのは、東芝が経団連下の大企業であり、「粉飾」と書けば、即座に倒産を意味する「不渡り」が「過失」扱いなのに対し、「粉飾」では、意図的に行なった「詐欺」=「犯罪」になってしまうからであろう。経団連のビルの隣は日経本社だった。そこには「書かないこと」が商売になる世界があるようである。
ジャーナリズムは、レトリック読み取り能力=リテラシーが高い人たちを対象にしている。一般の人はわからないから、「信じる」「信じない」しか判断の基準がない。そこに、ダマされる「構造」が潜むことになるわけだ。
ここで問いかける。
「リテラシーの有る無しは所詮教育の力によることだから、社会に出る前には機会均等的にその力を伸ばそうとするのが国家の義務だと思うが、ここのところの教育政策を見ると、明らかに公立小中学校教育への資本投下は抑制され、なおもカリキュラムや指導要領の抜本的な改革姿勢は見られないから、つまり、家庭でリテラシーの力がつかないものは見切られたということを意味することになると思わないか?そして、社会は下層の労働者を必要とするから、それはそれで構わないということになっているのではないか?」
これには、全ての人が同意するが、「自らリテラシーの力を伸ばそうとすることに無頓着な人はいつまでも救われないだろう」という見解も一致する。
彼らは言う。
「子どもに長時間ゲームをやらせ、テレビやアニメをたっぷり見せ、遊びに行くところはディズニーランド。サッカーや野球などの流行スポーツのテレビ視聴にあまりに長時間を費やす、そして年中スマフォ。新聞どころか本なんてほとんど読まない。どうしてこういう人たちの子が助かるの?」
「でもね、子どものときから機会不均等というのはあまりに可哀想ではないか。せめて学校教育がなんとかしなければ、彼らだって税金を払う意味がなくなってしまうではないか」
諸処の本の増刷決定に心から感謝するが、自分こそ出版社の手先になって売れるためだけの本作りに協力している人間ではないかという気にもなってくる。なんとかして、そこに、いささか忸怩たるものがあるも、「啓蒙」の精神を忘れない本作りを心がけたいと思う。出版社は、「読者はそんなものは望まない」と言うであろうが。
「親子で古典音読本」の発売はさらにずれ込んで12月下旬になった。その先の本も次々に制作に入っている。