技術的特異点以降の人間に必要なこと | JOKER.松永暢史のブログ

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21世紀に入って、科学の発達はいよいよますます加速しているように思われる。
その中でもコンピューターの発達スピードには恐るべきものがあると感じない人はいないことだろう。
コンピューターの発達は、科学技術に関するあらゆる方面でその発達を促した。
20数年前、携帯電話が登場した時には驚かされたが、今ではこれを持たない者はいない。これもコンピューターの技術あってのことである。
そしてスマートフォンが登場すれば、人はどこでも手軽にコンピューターネットワークに繋がることができる。ノーベル賞のための研究だってコンピューターがなければ話にならないだろう。
飛行機の着陸が機械による自動操縦であると知った時にはやや驚いたが、すぐにかえってその方が安全かもしれないと思ったものだ。
機械の発達により消えたものは実に多い。
駅の切符切りや改札は、機械によるものになって駅員は姿を消した。
地下鉄のホームも自動制御され、駅員や車掌の姿はなくなった。
車もナビがあれば地図は要らなくなる。
この後、車も自動制御できるようになるということだから、タクシーの運転手もいなくなる。新幹線の運転手も不要になるだろう。
ロケットを小惑星に飛ばして、岩石片を採取して地球に戻る。遥か彼方の冥王星の写真を見ることができる。
家の中でも、風呂給湯、玄関ロック、冷蔵庫、洗濯機、空調、その他、あらゆる電気製品にコンピュータ技術が使われている。
というより、原発を含めて最早それなしには成立しない製品ばかりになって来ている。銀行のシステムもすべてコンピューターが行なっている。
すべては皆コンピューター技術の発達あってのことである。
このブログも筆者のノートパソコンで書かれている(打ち込まれている)有様だ。
今の世でグーグルのお世話にならない人はいないことだろう。
知りたいことを尋ねれば、瞬時にその項目が羅列表示される。
英語で行なえば世界中の情報を手にすることができる。
将棋はまだだが、チェスの名人がコンピューターに勝てなくなっている。
文科省がIT教育に力を入れるのも無理なからぬことかもしれない。
で、カーツワイルらが主唱する「技術的特異点」(Technological Singularity)に至るとその先はどうなるのか。
発達するだけ発達した人工知能が、新たに物を造り始めた時、その発達速度は飛躍的に速くなることが予想されるが、それがどんな世を導くことになるのかは予想できない。政治家のやり取りもコンピューターどうしを繋いで、両者にとって最善の答えを出すようになるのか。コンピューターに戦争判断はしないことをインプットできるのか。今だって、イスラム国とホワイトハウスがネットで交渉中なのかもしれない。
宅配便が自動運転でやって来て、アンドロイドが荷物を届けにくるなんてことも現実になるのか。
学校授業も自分の学びたいことを選んでそれをコンピューター画面で学習する。これはすでに現実化し始めている。
何もかもがコンピューターで行なわれる。
生徒の多くが情報工学やロボット工学進学を選ぶことも理解できる。
いったいどんな世の中が来ることになるのか、それは誰にも言えないが、人間の感性による創造性には機械は追いつけないのではないか。
それは機械が自然を味わえないから。
機械が詩を作る。それは芸術になるだろうか。
機械が絵を描く。それは芸術になるだろうか。
カーツワイルは機械に作曲させたそうであるが、それがどんなものであるのか聞いてみたいものである。
機械が作った料理は美味しいだろうか。
いやいや、魚は機械で捕えられ。野菜も機械が作っているのかもしれない。
でも最後の調理は機械にはできないはずである。
少なくともその時分の季節感と食べる人の状態によって味わいを整えることはできまい。
機械に人間の微妙な感性を持たせることはできない。
だいたいから、機械に物を造らせるとは言っても、その発明はどうするのだろう。発明は、そこに前提として何らかの好奇心がないと発現しない。
機械に好奇心を持たせることはできるのか。そんなことをしたら機械が多動症になってぶっ壊れるのではないか。
チェスをしているコンピューターには、チェスをしていて楽しいという自覚はないであろう。
つまり、感性と好奇心は個々の人の肉体と心(意識)によって存在するものであるから、人工知能も最後までそれを有することだけはできないのではないか。また、人間はセックスすることにより世代交代することや突然変異を生むことができるが、機械にはそれができない。
以上つまらぬ考察にお付き合いいただいたが、ここまででわかることは、感性と好奇心の発達が維持されるほど人間的であるということになり、機械を扱いこなしつつ人間にしかできない仕事を担当することになるようである。
着想力と表現力。
これらを培うものは遊びと芸術に他ならないのではないか。
2045年に筆者は生きてはいないだろうが、2029年頃の人間と同レベルの人工知能の完成には同時代人でいられるのかもしれない。
その頃には、今とは全然別種類の人たちが世の中を歩いていることになるのだろうか。