タイコー発生 | JOKER.松永暢史のブログ

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太古より幸福の実現には芸術的要素が欠かせない。
そこには、感動を与えるものを味わうこととともに、感受したことを自ら表現することがある。
ふだん日本語を使っているからそのことに自覚的になれないと同様、表現活動について自覚的になることは意外と容易いことではないかもしれない。
情報量の異常に多い世の中の中で、人は多くのことを無理矢理吸収させられ、それを過ぎ去り行くもの、忘るるままに任せるしかない。しかし、そうしたことが連続すると、消化できないものが溜まり、「情報ファット」になって、精神状態がおかしくなる。鬱になる者もいれば、中にはつまらぬ犯罪を引き起こしてしまう者も出る。
焚火をすることは、その積層した日常の情報を燃やして昇華することでもある。だから焚火をするとアタマがすっきりする。つまり、「リセット」されるわけである。ともあれ、初めに焚火があって、それからそこに芸術が生まれたことは確実だろう。
人は得た情報を何らかの形で表現しなければならない。そうしなければ「情報ファット」になって、しかもそれを自覚できない状態になる。この時人が受けていた情報に、ある程度以上の商品情報が含まれる場合、人は購買活動をせざるを得なくなることになる。しかしそこには、「自己表現」はない。
それは、他人に作られた「娯楽」においても同様である。「娯楽」を享受する時、人は表現の代用を受けている。
人間は、自己表現していないと人間として存在できなくなる。
衣服、顔や頭髪の手入れ、ポーズ、歩き方、声音、そして、調理、音楽、美術、あらゆる創作、そして肉体表現。
人は自己表現していないと人でなくなってしまう。
しかし、オカネやそれで買ったものでは本当の自己表現はできない。
自らが取り組み、自らが体得し、自らが生み出したものでなければ、自分を表現したことにはならない。
あらゆる芸術表現が与える、人が人としてあることの本質—それは技術表現を含む芸術表現における精神的な「高まり」に他ならない。
つまり人は「高まり」を求めて芸術表現しようとする。「高まり」の部分には「陶酔」がある。
そして、自ら「高まり」を求める過程で、感受した情報は、昇華されて、変容排出される。
鳥取で、アフリカンドラムを3つ購入した。
これにすでに所有しているジャンベーを持って焚火に行った。
焚火でお腹いっぱいで一段落した頃、これを子どもたちに手渡すと、皆ドンドコボンボン叩く。
叫び声を上げることを教えると、様々な叫び声を出しながらこれを叩く。
太鼓は、叩くだけで様々な音が出るので、ただ叩くだけで自己表現に繋がる。
今響いている音が間違いなく自分の手が叩き出したものであると言う実感。
これはそれを続けるうちに一種のカタルシスをもたらす。
そして、自分がそれを続ける限りそれは続く。
つまり、「娯楽」と違い、勝手に終わらない。
自己確認の焚火教育の実験の次は、そこに音楽表現を加えることである。
文科省のお望み通り、子どもたちの表現力を高めたい。
それには誰でも叩きさえすれば対向発生できる太鼓はどうだろうか。
諸君は、一歳児が火を見て興奮し、叫び声をあげながら太鼓を叩く姿を想像できるだろうか。