我が国において勉強ができるとは、日本語の了解能力と運用能力に優れることにほぼ他ならない。
わが国では、学校授業も、教科書も、試験も面接もすべて日本語で行なわれる。だから勉強ができるとは日本語の了解能力があることが前提になる。
こんな当たり前のことを、単に一般世間が分かっていないだけではなく、教育関係者も確とは語らない。学校でもそのことを無視した授業が行われ続けている。
なぜだろうか。それは、ふだん使っているから自分は充分にその言語が使いこなせているという錯覚と無知、それから実際それができるようになるためのメソッドがほとんどないこと、そして文科省の指導要領の方向性にその原因があるのであろう。
日本語は古代から発達を続けている世界有数の高度な言語である。
外国語で書かれたものはすべて日本語に翻訳可能であることは岩波文庫をその代表としてこれを物語る。
和歌や俳句は外国語ではできない。欧米に俳句などの味わいの深い理解者がいて、ソネットならぬ三行詩などにこれを訳したりしているが、それはもうそもそもの俳句とは別物である。
以前にもどこかに書いたが、作詞家の阿久悠さんが、自作の詩を出版用に英語に訳さなければならなくなった。しかし、翻訳者が「訳せない」と頭を抱えた箇所があり、それは「友だちなら、そこのところ上手く伝えて」と言う部分であるが、今これを音声で発声してみても何の遜色もない日本語であり、「貴兄が彼の友人なら、私の気持ちとその経緯を彼に上手く伝えておいて欲しい」といったニュワンスになるが、これを英語に訳すとそれは「歌詞」ではなくなってしまう。
安倍首相の「70年談話」は、日本語で想起すると同時に英語への意味決定を確認した上で書かれたものであろうが、これに対して、英米からは即座に賛意の反応が返ったが、韓国と中国とロシアはほぼ無反応になった。これは日本語におけるニュワンスが自国語に正確に訳するのに手間取るからではないか。少なくともあの演説が、安倍さんの長州藩靖国的支持者への配慮を含んだメッセージであることは伝わりづらいはずである。天皇の「お言葉」では、「悲しみを新たにいたします」と言うが、この「いたします」という立ち位置ニュワンスはどう外国語に変換されるのか。
日本語は、2000年以上も前から連綿と続く、その特殊性にもかかわらず生命力の強い言語である。すでに古代において漢字の吸収に成功した日本語は、『古今集』を起点とした平安王朝において大きな高まりに達し、その後も低下することなく、いや停滞することがあっても、必ず「天才」が次々に現れて日本語を高め続けてしまった。『平家物語』や説話文学で大衆化し始めた日本語文化は、武士の時代に、「謡曲」という形で極めて高度な文学的完成を見せ、戦乱が終わって徳川太平時代に入ると、学問文芸が急速に盛んになり、藩校や寺子屋などで『徒然草』などが広く読まれた。同時に「歌仙」から発達したと思われる俳諧文学が大きな発展を見せ、西鶴芭蕉以降も、エロにはやはり傾くが、洒落から掛詞から自由自在の日本文が生み出され、それが歌舞伎や落語の高座などで一般に広まった。「明治維新」というものがあったとして、それとその後の近代的発展は、明らかに日本語が優れた状態にあったからであり、そのためにつけあがって欲に目が眩んだ人たちによる戦火を招いてしまったが、戦後の経済的復興や発展も全てその用いられる共通言語である日本語が高度であったからであろう。
日本語は世界に冠たる言語である。その深いニュワンスと高い感受性の伝達は他の言語の追随を許さないと思う。
その日本語をレベル高く維持することこそ、これからグローヴァル化して海外から人がたくさん入ってくる時代に向けての「国防」なのである。この国では「情報」は日本語で流通し、収入の良い仕事を得るために必要な資格試験も皆日本語で行なわれている。また、犯罪者の多くは、日本語学習が不充分なために、結果的にまともな職業資格を取ることができなかった者たちである。
この日本語ができない者が勉強ができない者なのである。
であるとすれば、文科省のするべきことは、日本語文化の全体のレベルを上げるために、特に下位層を形成することになりそうな者たちに、日本語の正しい基礎学習を与えることなのではないか。
日本語ができるようになるとは、日本語がどういう言語であるかを知ることである。それは10代になって外国語を学ぶことによる客観化では遅いと思う。するべきことは日本語の元となっているクラッシックス、つまり古典名文の音読である。ある言語を客観化することにおいて、その古典を読み味わうことほど効果的な学習がないことは、欧米圏におけるラテン語ギリシア学習と同様であろう。
クラッシックスは美しい。美しいから残っている。それを読んでそれが味わえる。そんな学習がつまらないものであるはずがない。
しかし、それは行なわれない。それどころか、そもそも生徒たちを受け身の体勢に追い込むように行なわれて来た教育システムにおいて、現場でも子どもたちにも「邪魔者」に思われるようにし、指導要領で文法と言葉の知識と訳文理解の学習を強いることにより、日本語古典そのものを直接読んで理解するという最も大切な日本語教育が行なわれて来なかったのである。結果、多くの人が古文と聞いただけで嫌な気持にさせるようにしてしまった。
こうして、まず私大理系の大学入試から漢文、そして古文が消え、現在では文系でも漢文出題は上位校だけ、下位校では古文の出題さえないと言う事態に至っているのである。センター試験では古文も漢文もある。国立大学文系二次試験にもこれがある。つまり、国立大学を受験する者だけが古文漢文を勉強する必要があることになっている。その受験者たちだって、日本語古典を読んでそのまま了解するものは稀であろう。
先にも述べたように、あらゆる言語学習の柱は、その古典的名文の音読了解訓練である。そしてそれはその国民の全ての者に可能なことである。しかし、実際そのレベルに到達する者はごくわずか。しかるに、V-netの諸君たちは、小学生のころから古典を音読了解し、バリバリ作文を書く。しかも楽しそうに。なぜこんなことになっているのか。そして、なぜ今も、子どもが古典が大嫌いになる古文学習が行なわれ続けているのか。そろそろその理由が分かって来たような気がしまいか。
あらゆる支配は言語とそれによる法制で行なわれるのであり、被支配者側の言語のレベルが支配者側の言語レベルより高い場合、支配者側が極めて困難な状況に陥ることは想像に難くない。そこでするべきは被支配者側言語の平易化と全体レベルの低下政策であろう。それにはできるだけ多くの者に被支配者側の言語の源である古典を忘れさせることが肝要になる。
どうやらこの「政策」は成功しつつあるようである。
皆さんダマされてはいけない。
ホントにコブンは誰でも音読して了解できるものなのである。
だって、古文は私たちの日本語の親なのだから。
そしてそれをすることこそ、あらゆる国語学習の土台なのである。
こんな当たり前に思えることが、どうしてなかなか伝わらないのか。