親子で高まる日本語古典音読 | JOKER.松永暢史のブログ

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現在夏の最後に重い「宿題」を抱えて難儀している。
来月ワニブックスから『母子で高まる日本語古典音読』(仮題)を出版予定なのだが、その主要部分のテキスト解説の記述に時間がかかっている。
これは「コブン」と聞くと、難しいという思いやつまらないという気持ちから「アレルギー反応」を示してしまう人もいるだろうから、そういう人でも愉しんでできるように説明しなければならないから難しい。しかもこの方面すでに専門家が多く存在するからいい加減なことも書けない。いつもなら一気に終わらせるところを、チンタラチンタラやらざるを得ない。辞書を引いたり調べ物をしたりすることも多い。結果的に「気分転換」の家事をすることが多くなり、いつもよりいっそう掃除洗濯炊事に精を出すことになり、昨日は誰も家にいないのに美味しい夕食も作ってしまった。今朝家人が弁当に詰めるそうである。しかしそんなことばかりしていれば、事務所での仕事もあるし、なかなか原稿が進まないことになる。とはいえ、今週中には終わらせたいし、日曜日にはV-netの焚火もあってその準備のためのアタマも忙しい。
それにしても、改めて我が国の古文教育は,それを嫌いにさせるベクトルが働いていたと思わざるを得ない。
母国語で書かれた,しかも後の世の言葉の元となった古文の名文を読み味わうことが楽しからぬわけがない。
その楽しさを教えるのが国語の授業であったはずだ。ところが、細かいノートづくりと暗記主体の学習ばかりで何ともオモシロくない。中には「苦手」と思い込んだり、受験で古文の出題がない学科を選ぶものさえ出る始末。
筆者の教室では、すべての子どもたちが古文をガンガンに読んで理解することができているというのにである。
古典とは美しくてオモロいものが生き残ったものである。
読んで美しくないと残らない。
読んで興味深くないと残らない。
そのエキスが古典のテキストである。
しかし、どう考えても古文の授業は楽しくない。
なぜだろうか。
今思うと、それがわざとではなかったかと思うほどだ。
今でも子どもたちがオモシロくないという古文の授業、それは上からの古文教育への制約があるからなのではないか。
つまり、徐々に日本人が日本語から離れていくようにしむけることが国文科も気づかぬうちに暗黙のうちに行なわれているのではないのか。
日本人にとって、日本語古典は、欧米人にとってのラテン語やギリシア語の学習と同様、自己の言語を客観化しその可能性を高める学習をするのに欠かせないものである。
古文が苦手な人は、「どうして使わない昔の言葉なんて学ばなければならないの?」とか口にするが、こういう人はまだまだ自分の日本語が浅いものであることが分からないまま大人になるのである。
もし母親が、日本語古典の正確な音読の学習をし、それを幼い子どもが耳にしてともに学んで高まるとどういうことになるか。
古典がそのままで読んで了解できるとは、現代文も完全に読めるようになるということを意味する。
そして、真に現代文の読解能力が高い子どもは、当然勉強が得意になる。
今必要な、18歳の大学入学までに,専門家の話を聴いて理解し、彼らの提示するテキストを読んで質問了解し、その上で自分の考察結果を文章にまとめる能力を子どもに備えるためには、幼いときからの古典文の音読が最も有効であるはずである。