『自然欠乏症候群』(ワニプラス新書)という本がある。
これは、現代人の病の深層に、自然から遠ざかっていることに対して自覚的ではない、あるいは越えてはならない一線を越えてしまっていることに対する無意識に対して警鐘を鳴らす著作である。
これを、哲学者や社会学者が主張するなら説得力がないが、「症候群」と名付けるところからもわかるように、著者は医学博士なのである。
山本竜隆氏は、朝霧高原診療所院長である医師であり、日本ホリスティック医学協会理事にして、日本メディカルハーブ協会理事にして、日本東洋医学会認定専門医等といった極めて多様な要素を合わせ持つ人物である。
健康に生きるために、自然に接することの大切さ、自然を味わうことのかけがえのなさを訴える氏が実践することは、人にとって良い環境の過ごし方の実例を提示することである。
この自分にとって、関係が深いと思わざるを得ない人物が、その著書の中で「焚火」の効能について語らない。
それは断然オカシなことなのではないか。
火は、自然環境内では「異変」であり、火山の爆発同様、通常連続性のないはずのことである。
それを連続的にコントロール可能になった者が原始人類であり、そのことを起点としてあらゆる道具などの開発と、言語そして宗教をものにしたことであろう。
火がなければ、人類の文明も起らず、言語も起らず、カミも起らなかった。
『自然欠乏症候群』という書を著すのであれば、そこに火の効能を語らないのは、『ギフティッド』同様、大切なことを忘れて片手落ちなのではないのか。
それを確かめるために、富士朝霧高原の著者を直撃した。
条件は、例によって「焚火」である。
これだけ仕掛ければ相手がどれほどであるかしかと観察できるはずであると、あたかも蜘蛛が念入りに網を張る様に「準備」をして、いざ現地を直撃取材を試みると、なんと相手は、最近積極的な取材活動であらわな「実態」を掴みつつある、これまた「認識」の次元の上にある真に興味深く、また「千載一遇」の人物なのであった。
まず現状都会で行なわれていることは異常であるという直感感性がある。
その上で、では医者とはどうあるべきかを自己に問いかけると、自分が気持ち良い自然環境に身を移すことを実践することにより、そこに思わず人を呼び寄せてしまう場を提案提供することになる。人が自然に接して気持ち良くなって病を吹き飛ばしていただきたい。これはすでに「医者」を越えて「芸人」の部類である。
この結果、2万坪に及ぶ「日月倶楽部」の運営が始まる。そこには都会から来た人がその地を適宜に味わう最高の環境提供をしようとする、既成の概念を越えた新しい「サービス」の提案があり、人に環境の気持ち良さを伝えることにより、人間本来の健康のあり方に気づかせて行くという遠大な医学哲学の実践があるのである。
感極まった能役者が再演を約束する、実の富士山を背景にする能舞台。
思いついたことを実行に移すエネルギーと現象力。
未来的な新しい試みは、あらゆる人がし始めることによって、まるで熱を持って加えられた焚火がみごとに燃え上がるように、「現象」して行くに違いない。
今、いたるところで新しく生きる試みが実践されている。
焚火ももちろんしたが、それ以前に「問題」は簡単に解決された。
通された部屋にも薪ストーブがあった。
聞けば木造建築の診療所の待合室も薪ストーブであり、部屋の隅のその定位置の前の席は、常に先着客の「特等席」であるそうである。
これからは薪ストーブの時代である。
水と食物とこれさえあれば、どんなときでも生きていかれる。
それが吉祥寺では実行できない。
もはや考えるべきは、近場に暖炉か薪ストーブ、おまけに菜園が可能な家を持つことである。
筆者には二つの代表的な、心から羨ましいと禁じ得ないことがある。
それは、薪ストーブが使用可能な家と、孫ができたという報告である。
以上、今日の「興奮」のために書いた。