文科省「通達素案」ー人文系教員養成系はイラない | JOKER.松永暢史のブログ

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相変わらず毎朝セミノールを飲んでいるが、最近バイトで小笠原に行っている若者からパッションフルーツが送られて来たので、これを一つ割って中身の果汁をセミノールに入れて飲むと、ワォー!まるでトロピカルの王様になったかのような気分になるほどに最高の美味である。
セミノールは最近街にも出ているが、1個100円近くして異常に高い。しかもおそらく、味は有機無農薬天然クエン酸のセミノールのようなアレがない。
セミノールとパッションフルーツを掛け合わせるとどんな果物ができるだろうかと考えたりするが、これは種類が違うから、セミノールをマンダリンとグレープフルーツを掛け合わせたように作ることはできない相談である。
パッションフルーツは南米原産のものだそうで、トマトといい、南米のものには面白い味がある。
それにしても昔は、キウイなんてなかった。アボガドが出た時には食べてもそれがいったい何であるのかすらわからなかった。
果物一つをとっても、本当に様々な植物があるものだ。
さてこの果物のグローバル化に合わせてというわけではないだろうが、文科省は国立大学人文社会学部や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を発表した。これによる「世論消化」を経て、やがて本格的な通達を出すことになる。
なぜ国立大学に文科省が通達を出すのか、それは国立大学が助成金を握る文科省の配下の独立行政法人だからである。
センター試験高得点を目指すスタイルの勉強を強いられた地方進学校生徒たちは、都会へ出るお金がなくとも成績優秀であれば地元国立大学に収まることができる。地元国立大学に進学した者は、地元公務員や地元教員になる者が多いだろう。そうでなくとも地元に企業があれば、そこへ幹部候補生として就職することもあるだろう。しかし、地元の外の大学に進学することが可能な者の多くは、地元に帰ることが少ない。都会で就職する。
これだけ交通網が発達しているのだから、金さえあれば国内どの地域の大学を選ぶことも可能である。しかし、それができない者は地元国立大学を目指すしかない。
であるとすれば、そうした人たちを、地域に役立つ即戦力となるような人材に育てることが求められる。それにはおそらく資格試験が課されるだろう。そしてその元締めは文科省がになうことになる。
文学や哲学や歴史学などの人文学は実社会での即戦力になるか、そしてそれは大学というところで学ぶことなのか、と強く問われると、今のような時代には、社会で働ける人には、数学ができてコンピューターが駆使できて、日本語でも英語でも法文を読んで確認することができるような者が求められるのは明らかであるから、積極的に肯定することはできない。
だいたいから、日本の大学の文系学部は、学問の場所としては95%以上不適格な者を入学させて収益を上げるところである。おおよその人々が求めているものは「学歴」であり、「学問」ではない。だったら、他の私立の大学が生き残りをかけて、専門学校よろしく就職しやすい人材養成の学部を設立営業しているように、もはや大学の理念とか固いことは言わずに、より現実を直視した「商売」を考えろということらしい。
それにしても腑に落ちないのが、文科省が教員養成学部の縮小を迫るところである。これからますます学習形態が個別化して、その結果教える人材が不足するのは明らかなのに、どうして国立大学の教育学部を小さくしようとするのか。そもそも国立大学の多くが、旧高等師範をその母体としているのに、その本家が役に立たないから小さくなってくれろと言うのである。
文科省は、これからの教員は私立大学出身者の方が良いと考えるのか。なぜならセンター試験を受けてないから?
いやいや皆日本の学生なんて、所詮選択肢穴埋め暗記対策学習ばかりで、思考力や発想力なんて失われていることだろう?
まあ、本来教員に流れてしまう優秀な人材を、できるだけ役所や企業で働く人材に育てようとする意向であるのは間違いない。
さて一方で、世の中は生涯学習の時代で、高齢者たちも学びを行なう社会である。
放送大学を聴いていると、そこには実に数多くの先生たちが登場して彼らの学問について熱く語ってくれる。話が上手い人も多く、また学者をしている人の人柄が、極めて安心な人間の代表のような印象を醸し出し、何人かはファンにもなっており、ラジオをつけた時彼らが「出演」していると、思わず「ラッキー」とか感じたりするのであるが、そこで最も面白い物が、文学や哲学、社会学、人類学、歴史学といった人文系の学問である。放送大学を聴く人はある程度の年齢に達している人が多いそうだが、年配者が年配になっても知りたいと思う学問の中枢部は実は人文社会学関連の中にこそあるのではないか。
なぜ生きているのか。どうして世の中はこのようにあるのか。自分はどう生きるべきか。
これらは人間が死ぬまで考え続けることである。
しかし、ここでハっとする。もし、放送大学で学ぶので充分な人がいるとすれば、地方の国立大の人文学部の必要性は薄れることになる。いや逆に、地方の大学は年配者を対象に人文学の授業を行うのが良いのではないか。いや、そんなことは「市民大学」とでも称して、グループを作ってその学者を講演に招けば良いということなのだろうか。
おそらく誰も助けない。
これからは地方国立大学で、人文系教育系の教育サービスは受け辛くなる。そしてそれはおそらく世論とも合致する。
敗戦後70年、こうして我が国の文化度はまた一段確実に下がることになる。
と、人文系哲学科出身者は「冗談」で書く。