今日は朝から「みぞれ」。春らしく突然寒い。でももう「これで最後」だろうと吉野山遠景山桜想う自分がいる。
10日より、調布→石清水→生駒山→奈良市内→三輪山→吉野山→北山→瀞峡→玉置山→新宮→御浜(セミノール収獲)→東京、と4泊5日で個人でイヤシロツアーを行う。朝予定より早く出れれば諏訪大社参拝のため諏訪で一度高速を降りる予定。
本日は文京シビックで親子音読会。
これは、親が音読訓練する場に子どもを居合わせさせて、そこで親と講師の声を子供たちに聴かせる効果を狙う究極の教育環境設定の試みであるが、それを直観理解した参加者に感謝する。
子どもを育ててその子どもが自分より賢くならなければ面白くない。
でもその元は日本語の能力である。
だとするならば、親がするべき最善の教育環境設定は、自身の最大限の国語能力伸長を心がける姿を子どもに体感させることになると思う。
つまり、それを理解した親たちがここに集っていることになる。
塾も学校も完全には信頼できない。
教育の本線が子どものアタマを良くすることであるという当然の自覚と確信に欠ける。
そしてそこでは、親である全ての人がするべき最低限のことが「前提」になっている。
それは確定的に日本語で了解する能力の高さである。
だから子どもを賢くしたい全ての親のするべきことは自分の国語能力を高めること、自分の国語能力が高まっていることを子どもに体感させることである。
音読以前に知るべきこと日本語の本質。
それを決意した親たちがこの音読会の出席者たちなのである。
自分たちは「ダマされた」。でも自分の子どもはそうはさせたくない。
それどころか自分も覚醒してしまいたい。
覚醒することは己の状況をつぶさに知ることで、それはそれでなかなか辛いことである。
愚かなる自分を識る。
そうして我が子と「一体」になって、それを捨てようとする決意と実践。
それがカタカムナ音読会である。
次々と広がる、我が国国語教育の爆発的「テロ行為」、そしてそれによって開ける平和的な未来志向社会の生き方。
あらゆる子どもに、機会均等に、日本語の驚くべき効能を体感させること、それがこの音読会の目的である。
もはやこれを知るべき者の代表は、佐藤学の新著はやや気になるが、学校教師であろう。
文科省と日教組を同時に超越する決定的教育メソッド、それがカタカムナ音読法である。
誠意があれば、アメリカ人にもこれを教えてあげたい。
ポリネシアハワイや、アメリカ先住民によると同様に。
「政治的支配」以前に、「言語的前提」がある。
子どもたちからクリオールが起ってしまうのはその証左であろう。
生き残るものは、そこに元からある「母」のカルチャーである。
賢くなってしまうことは面白い。
母が賢くなるのは子どもにとっての最高の幸福ではなかろうか。