デスクにあって忙しすぎて、ここにその全体の部分を記述することもままならない「境遇」であるが、敢てその愉しみのためにこれを行う。
実は金曜午後から今までデスクを離れた。
デスクを離れるとは、ネットやメール情報とのやり取りから逃れることができると言うことである。
(実はこの瞬間に鳥取への感謝の電話)
どうしてこんなに楽しいことが連続するのか。
今回鳥取倉吉音読会では、いつもの「定席」、筆者の「砂被り」にいたのは、何と1歳11ヶ月の子ども。
この彼が、明らかに、生のセミノールオレンジジュースの食感以上の「発声」をしてくれる。
「ア」や「イ」だけではない。
「ウィ」もやってくれる。
言うまでもなくこの瞬間、筆者は、極めて幸運なことに、我が国の教師たちの間で最大限のことができている「教師」の一人になっている。
「赤ちゃん」の段階の子どもに、日本語の一音一音性の本質を母親が含めた大人が斉唱することによって感性的に了解させる。
日本語の本当の音の、そのえも言われぬ快感に同調して、それを思わず自動的に発声してしまう。
アッラーアクバル!に勝るものはこれである。
その教えの「内容」なんてどうでもよい。
ただ必要なのは、我々を「覚醒」させる「音」。
それが、「カタカムナ音」なのであり、いかに優れた者でも、究極これを了解しなければ、「日本語」における、本当の「言語」の「効果」を「認識」することはできない相談であることになるのである。
自らの述べることのほぼ確定的正しさを、いささかやや「教祖」じみた口調で主張するのはお恥ずかしいが、もう誰が言おうが、いかなる「圧力」がかかろうが、子どもたちに日本語の本質である「一音一音性」を「布教」することに少しもやぶさかでない。
今年は、子どものアタマを活性化する「教育テロリズム」として、どんどん、ビシバシ、各地で講演「実伝」して行く所存である。