世間営業やテレビで行われていることを「客観視」できる人は関係ないが、自分がひょっとしたら「サブリミナル」な「洗脳」にダマされている存在なのかもしれないと疑うことがある人もいることだろう。
でもその「実態」はなかなか「自己確認」出来ないことだと思う。
実は、そんなときの簡単な「切り札」があるのである。
この「Joker」ブログの読者は、まさにそれを知るためにこそこれを読んでいる人たちであろうと拝察申し上げるが、その主張の最たるものは、単に、意識的に「巫山戯る(ふざける)」ことなのである。
「巫山戯る」というと、筆者同様、Joker=「バカ」になることだと捉える向きもあろうが、それを意識的にした場合はそうではなくなるというところが「ミソ」なのである。
かつてこの世にマックや早稲アカやケータイショップがある前のはるか昔、中学校教師の一人に、「君ほど洗脳しにくい生徒はいないかもしれない」という、まるで現配偶者に思い知ったかというほどの「ご発言」をいただいたことがあった。
その理由は、教師の嘆きの言葉に、「直球冗談」で返したからである。
すでにどこかに書いたことがあるので具体的な記述は控えてしまうが、催眠術事件の連発に悩む教師に、誰でもかかる催眠術を冗談で「披露」した時の言葉である。
言葉で考えて「疲労」するのは間違っている。
そんなことなら、瞑想して適宜にクンダリニーを上げて、そのことも考えないような状態のアタマを作ることができることの確認の方がよほど正しい。
でも、わっからないんだよね~。
多くの場合、ホントに申し上げないが、「鬱病」になることが「間違っている」ことが。
多くの場合、「鬱病」にならないようにすればハイそれまでよなのである。
そしてそれには、「怒り」か「ふざけ」のどちらかのココロが必要なのである。
人は簡単に「ダマ」される。
なぜなら、「信頼」することは、自己善意の「表象」であり、その存在「理由」を満たすかもしれないから。
人は愛する自分を善意に確認しようとするから自らダマされるのである。
それは美しいが、すでに「過去の産物」である。
繰り返し目にするのものや、耳にするものには「親近感」を禁じ得ない。
これこそがサブリミナルの「本質」である。
このことを繰り返し平気で利用仕掛けてくる者たちは先ず疑って掛かるべき「存在」である。
つまり、人は自己善意の確認を捨象しない限り、究極ダマされるということが前提になっている。
それは完全に「バカ」になることでもある。
バカになってダマされていることを受け入れてしまうことである。
しかし、そんなことはどうでもよい。
絶えず問い続けるべきことーそれは自分が何を本当にしたいかである。
ここで驚くべきこのことについて対策ウルトラC(古いが)が「巫山戯る」ことなのである。
「広告」なんて関係ない。
ある意味で何も分かっていない無責任な子ども性の表出。
何かを「洗脳」しようとする場合、そこで最も困ることはその状態を「笑う」ことの表明である。
でも、「笑おうとすること」は、場を和ませるための、「前技」ならぬ「善意」なのである。
そして、そのときにこそ、焚火同様同次元の、何か新しい認識の「元」を創作していることになるのである。
意識的に「フザケよう!」と発令した場合、それはいかなる「権力」にとってもスカンクの屁のような大きな効果を与える。
でもより恐ろしい。
考えて見ても欲しい。
もし大衆=おおよそ「B層」が、「巫山戯」こそが「本尊」と認識した場合、あらゆる政策は、ある意味で、完全無意味化してしまう。
お金?ふざけんなよ!そんなもの余分にあくせく働いているものたちで分割してくれ!
「天下り」?寿命が延びた時代での先が読める悲しき官僚たちの最終結論よ。
ここにあるのは、人生には金がかかるという認識である。
しかし、それは逆転的に、雲の合間に太陽が姿を現した時のようなものだ。
くどくど書いたが、意識的に、主体性的に巫山戯た場合、「洗脳」が通らない「事実」が体験しやすいということである。
付け足すが、以上当然のごとく、「冗談」の「つもり」で書いた。
これぐらいで「充分」か?
