原発について | JOKER.松永暢史のブログ

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都知事選で原発の捉え方をどうするのかの議論が煮詰まっているが、もし各家庭各個に太陽光発電+αの自家発電と必要に応じた省電力が可能になった場合、原発はおろか火力発電所も不要になる。電気が足りないから、ネットをやっている子どもにチャリンコを漕がせて発電させてダイエットさせることも可能なはずである。これは恐ろしい事実であるが、困るのは工業産品を作るために電力が必要で、それを「経費」とする企業なのである。国民の多くは企業に勤める人たちであろうから同時にこれは困ることになるはずである。
でも、やろうと思えばできるだけマニュワルでもできるという体勢を作ることは、ある意味で、最大の「国防」ともいえるのではないだろうか。
原発は貧しい地域の地域復興を名目に建築された。
そして、その地域の多くは「恩恵」を被った。
貧しさからの脱出が、必ずしも豊かさの追求ではないことは、最高先進国である我が国の国民が暗黙の内に体験したことである。
豊かなだけでは話にならない。
その上に何が築けたかが問題である。
近いうちに私たちは、電力を自前でまかなう技術を手にすることであろう。
ガスで発電してそれで充分ということも可能になるだろう。
だいいちすでに自動車はガソリンで自家発電して機能しているではないか。
そうした時代がくることは必然である。
原子力が古い時代になることは、科学の飛躍的発展のアスペクトからすれば当然である。
できるだけ科学的なエネルギーを排除して、自然環境保全を可能にした天然循環生活を手にする時代はもはや目の前にある。
植物同様、明るい時間に起きて生活すれば、夜間の照明電力はほぼ必要ない。
地球における生命現象とは、とどのつまり、太陽エネルギーを基にした光合成である。
つまり、エネルギーの蓄積である。
もし、地球上のあらゆる地域で、光合成に代る太陽エネルギーの直接吸収効用化が可能になった場合、それは縄文以降太古からの根底問題を科学的に解決することであり、ここにおいて衣食住を得た人類が、いったいいかなることを「生活」として過ごすべきであるかを考察することは、かつては哲学者のみの仕事であったであろうが、人類進化した現在ではそれはすべての人が希求して自ら答えを得るべきこととなろう。
それは何か。
このことに答えを与えようとせずに人の上に立とうとするものは、政治家もその他も全てニセモノである。