リベラルアーツ初級コースは、次回(2月1日)より、『ブッダの言葉』(中村元訳 岩波文庫)を読んで、初期仏典においてブッダがどのようなことを語っていたかを確認する予定。
上級コースは、『ツァラトシュトラはこう語った』(ニーチェ著 岩波文庫)か、『ガルガンチュア物語』(ラブレー作 岩波文庫)か、『逝きし世の面影』(渡辺京二著 平凡社ライブラリー)のどれにするかを、1月25日に『ヨーロッパとは何か』(増田四郎著 岩波新書)を読了後、合議の上にてこれを決定する予定。
最近ふと思うことだが、ソクラテスはいったい何歳頃から「ソクラテス」になっていたのかということがある。
70歳で死んだソクラテスが、「ソクラテス」をするようになったのは、50歳以降のことだろう。
自分の死が近いことを感じ始めたとき、それでは自分にはいったい何ができるのか?と純粋に考えて、「ソクラテス」をやり始めたのではないか。
それは自分がその年齢に達することによる、「実は何にも分っていなかった」ことへの強い後悔の念を、若い人たちに予め伝えることこそが「大人」の役目と考えたからなのではなかろうか。
ペロポネソス戦争に重層歩兵軍団の一員として参加した、「無知の知」の認識—人生真理の次元を知ることによる、それまでの自分を含めた一切の人間存在の不全さへの自覚の提言。大切なことはまだ何も分っていなかったと言える自己を予想すること。
ともあれ、ソクラテスの言論活動に対する死刑判決は、これに若者が心酔して、騒ぎがその「思惑以上」に大きくなったことによるものであろう。
大切なのは人より優れる「権力」ではなくて、自己自身の最大限の向上の可能性の追求と、その結果である「社会貢献」である。
人間の最もするべきことは、自己の与えられた遺伝子的存在内における最大限の進化発展向上性を追求することであろう。
このことは、資本主義もその他の主義も包含してしまう思想なので、このことが一世代ではとてもなし得ない家族的構築によるしかないと判断類推する人たちが先導して世俗的価値体系が一応決定する。
でも本当にそうなのだろうか。
あらゆる究極の反応は、「偶発的」である。
「神の手」とは、「冗談」のこととも言える。
偶然が、あたかも必然のごとく感じられた場合、そこに何かが生まれうる。
それをとらえるのはその一瞬の「感性」である。
オモロいことはそこにある。
オモロいことを感じる力にある。
そしてオモロいことを自分の「環境」に見つけ出す力にある。
衣食住さえあれば、生きることの目的の究極は、実は男も女も、子どもも年寄りも、そこにオモロいことを見つけようとすることになるのではないか。
だがそれには、真のオモロさへの感性が欠かせない。
古代ギリシア人たちは、「読書」を瞑想法の一つととらえていたそうである。
おまけに、戦争がないと「スコラ」(ヒマ、「スクール」の語源)だった。
ヒマなとき瞑想する。瞑想すると頭が冴える。感性が鋭敏になる。認識が深くなる。すると、オモロいものが見えて来る。そうして連続的に知的活動を行う。
市民に覚醒を求めた、余命短い70歳の老人を死刑に導く「現実」。そうしてその老人が自己の主張の論理的完結性を完遂するために自ら毒杯を仰ぐ。
ソクラテスは宗教的聖者ではない。
あくまで人間であることの延長線上にある聖者であるところが尊いのだと思う。
ということは、ソクラテスが追求したことは、最もオモロい結末のパフォーマンスだったのかもしれない。