なんでこんこんなものを実施するのか。経済協力開発機構(OECD)が初の国際成人学力調査(PIAAC)というものをしたそうだ。その結果、日本人の数的思考力と読解力は世界一(参加24カ国中)であるそうだ。
そもそもその試験の基準や観点を作ったのはどこなのであるかはいっこうに判然としない。またその調査の対象になったのがどこの誰であるのかも判然としない。読解力を測るのもまさか選択肢?マークシート?バカバカしくてやっていられない。「読解力」ではなく、簡単な選択肢問題に強いというだけなのではないか。これなら、「基礎教育」以上に幼い頃から訓練されているから納得できる。
国民的圧倒的総意で「原発反対」なのに、選挙では実は唯一その再稼働に積極的な自民党が圧倒的に多数を占め、アベノミクスが歌われ消費増税が決定される。
これは「茶番」ではなく「現実」であり、我々が投票した結果の自画像である。メルケルの完勝を許さないドイツ国民とはエラい国民的レベルの差であろう。
教育の先端活動家から見れば、明らかに低下している我が国の教育水準が全体的に見れば劣ったものではないという表象はいったいどこの誰によるものなのか。
これはナショナリズムをも利用しようとする安倍内閣的文科省的活動の「結果」を暗示させ、この「目眩まし」に我々は手放しで反応するべきではないだろう。
他言語と異なる日本語も操る人間を、どうやって国際水準でその能力を測ることができるのか。
各民族には、各民族的言語水準において優れるものが台頭するのは必然であろう。
とすると、「美しく」はない日本語で、日本を「美しい」と表現しようとするものはこの先皆滅びるものであるはずである。いやそうあってもらいたいものである。
世界に冠たる言語の一つ、日本語をバカにするな。
日本語を無闇に支配統制の道具にしようとするな。
日本人全ての人が、この言語があったからこそ我が国の今日的な発展があったとあらためて認識するべきであろう。
でも、その「言語」は、現日本人だけのものではない。
大陸からの侵出以前の日本語—来る前よりそこにあったものーその音を探らないかぎり、我々の本質的な言語的覚醒はありえないのではないか。
それにしても、こういう国際調査試験をすると、どこが収入を得るのであろうか。そして、誰が何と言ってこれを提案したのか。メディアはそのことをこそ追求するべきであるが、それはできない相談だろう。たとえ平均的な「読解力」は世界一でも、上層部分の読解力はいまいちであるのが実体だからだ。戦後の日本語教育が、国民の文化レベルを下げていることは明らかなのに、それを演出し続けて来た文科省が、「基礎を重視して来た戦後教育の成果」と言評するのは、あまりに国語力が高いか、アタマがやられているかのどちらかであろう。
これから東大国語記述解答の指導にV-netに出る。
最近の決め台詞は、「それじゃあ立派なお役人には成れないね。今の時代、大臣が麻生さんでも通じる文書を書かなければならない。」
以上当然のごとく「冗談」で書いた。
皆様秋の連休をよろしく楽しく過ごされよ。