あまりにバカでしかもとんちんかんなことを言う政治家がいるので、それに準じて、昨日は歴史的「バカな王様の代表」ともいわれるナポレオン3世についてつい深く検索調べてしまった。23歳の家人には、「大人はどうしてこのような人物を政治家に選ぶのですか?」と問い返されてしまった。
ナポレオン3世は、ナポレオン1世の甥として生まれ、主にスイスで裕福な生活を過ごして育ったが、成年後何度も一揆やクーデターを計画しては失敗し、どういうわけかそのあまりに単情直入の愚かさからか死刑等の重罪を免ぜられて国外追放や投獄処置になるがその度に復活する。1848年の二月革命時には脱獄亡命先のロンドンから帰国し、共和国政府による男子普通選挙に出馬して当選して国会議員となる。さらには年末の大統領選挙にも立候補して、対立する多数の候補者を破り圧勝当選してしまう。1851年には、何と大統領自らがクーデターを起こして議会を制圧し、その信任国民投票でも圧倒的な支持を得た。1852年にはこれまた国民の圧倒的支持を得て皇帝位につく(これはかなりナチスの『総統』の意味に近い)。戦争の続くヨーロッパと海外拡張の時期に、国民の愛国心を一身に受けて皇帝になる。声も小さく、演説も下手、しかも短足で小身、そしてド助平。ただナポレオンの甥であることと作家的夢想力だけが武器。しかし、その夢想力によって、領土拡張、経済発展、パリ市建築と、フランスにとっては、一面優れた「施策」もあった。
時代の波に巧みに乗って来た彼の最後は、1870年プロシアのビスマルクの策謀によって、両国の国民敵対感情に火がつき、やむなく普仏戦争を戦った時だった。彼は劣勢仏軍の士気を煽るため、何と皇帝自ら出陣し、ドイツ軍に連敗退却し、おまけに最後は退却を躊躇したロレーヌ北部プロシア国境近くのセダンで包囲されて白旗囚われの身になってしまう。そしてこれに怒ったフランス市民が、彼を完全無視してパリコミューンを起こして第三共和政を開始することはご存知の方も多いことだろう。彼は1873年亡命先のロンドンで死去した。
ポピュリズムー彼はまるで現在日本の企画会社のようにそのことを第一義に捉えていた。彼こそは民主主義を表明し、選挙で勝って位を上りつめた者であった。そしてそのコアにあったものはナショナリズムであった。あたかもその後のドイツやイタリア、そして日本といった新興国でやがてファシズム政権が誕生して来るように。ヒトラーの「手口」はその代表である。
ワイマール憲法下における歴史的推移の認識についても誤り、しかもそれを引用して国民が静かなうちにことを決めるテクニックが大事だからあんまりマスコミは騒ぎ立てるなとか言ってしまう。知識もレトリック力も正真正銘の「バカ」である。
この人は、かつての自民党失言元首相同様、心底愚かな、しかも古き政治家なのである。
「迷盲」(これ遊びでわざとちょっと麻生的冗談でおふざけゴメンナサイ)と言うか、よく分かっていない。
読売新聞記者が、米国の意向も配慮しながらリークせざるを得ないのもよく分かる。
会ってみれば、実は気のいい、育ちの良い言いたい放題オモシロ親父であろうが、政治家としての「資質」には劣り過ぎる、というよりあまりに世の中を舐め過ぎているといえる。
私は、「ナポレオンの血筋であるから可能性がある」という「錯覚」の根拠をダイアローグしたい。
源氏物語研究家としては、道隆長男でまんまと叔父の道長に「ハメられる」「伊周」を想起してしまう。「学習院」よりも「慶応」の下からきたものに見られる「勘違いバカ」の類いではないかと思ってしまう。
ナポレオン3世は民主選択を重視した。
なぜなら民衆は、彼の操ることのできる対象であったからである。
バカを選んで、結果的にパリコミューンで、プロシアのパリ支配—フランス人は馬鹿丸出し。
麻生が政界に出られ続けることにも他の政治家同様いささか驚くが、それに代る人材が思い浮かばないところが恐ろしい。
逆に武蔵野市では「なぜ菅を?」と言われてしまうことだろう(それは「土屋を?」と言われても同然なのであるが)。
実は政治家は、そのコアは「パフォーマンサー」で、本質はおおよそ「バカ」なのである。
意味がないのに町内相撲大会に顔を出したりするのである。そんな暇があったら、政治家としての本務につけ。
芸能人や元スポーツ選手でも簡単に政治家になれるのがよく分かるというものだ。
司馬遼太郎の「龍馬」が流行っているのは、まさにその世間の流れのためであろう。
最早「リーダー不在」はかまわない。
そうではなくて、次なる「リーダー」は、どういったことを唱え、どういったことを実現する人物なのであるのか。
そのことをこそ、問いつめていこうではないか。
そしてそこに少しでも「ポピュリズム」の匂いを感じたら、その政治家をアタマから「抹消」しよう。
とにかく、CIAが「謀略」が仕事であることを公式ページであからさまに認めている現在時代においては、少しでも「ポピュリズム」の匂いを感じさせるものは、全て否定していくのがこれからの時代のナチュラルな国民感情の動向と言えるのである。
このことは、日本が外洋を海で囲まれた島国であることと同時に、時代が英語グローバル化状況であることの俯瞰的認識を前提にすることでもあろう。
個々が主体的であることが可能な時代において、その主体性を追求しない人たちが、「主権」の大半を握る状況下において、その現状客観が未来のためのものであることを鑑みるとき、「教育=能力拡張」をなおざりにして平気であるものは、すべて「非国民」であり、同時に「披支配民」であると言えることになろう。
「ヒトラーのように知らぬうちに国民を導くのが正着ではないか」
この政治家に一票を投ずるものは、本当に愚か者である。
即座に分をわきまえて政界を去って、国民の目の前から消えて欲しいと思う。
残るものも同然である。国会議員の一般的水準が低いから、こんな政治家が出て来ることが可能なのである。
最早衆院は、地方区は止めて、完全に比例代表制にするべきではないのか。
その上で「憲法改正」なら、国民も静かに納得することだろう。
それこそが、本当の自由民主主義的ではないか?
「アタマ」が良くなるには、「国境」はない。
全て、「意志」のもとに最大限の自己を実現せしめよ!
でも「社会認識」もなければ「空振り」よ。
以上当然のごとく、半ば「冗談」で書いたことはご了承願いたい。