体罰と冗談( by Joker ) | JOKER.松永暢史のブログ

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予想通り、世間メデイアでは、「自殺の精神的な理由」より「体罰」のことばかりやや過度に取り上げている。
まだ20代の結婚直後の頃、知り合いの塾経営者に頼まれて2年間ほど塾で教えたことがある。まだ周囲に田園風景が残り、子どもたちは皆元気いっぱいだった。1クラス男子だけの9人で、週2回英語を担当した。
これは、数学科の教師と組んで前半後半と授業を行うのであるが、相棒のK先生はスパルタ式の熱血漢で生徒ができるようになるまで指導する、まるでスポーツのコーチのようなタイプの人だった。
ある時授業中生徒の一人が呟いた。
「K先生の手の暴力に比べれば松永先生の口の暴力の方が痛いです。K先生のはその時だけ痛いが、松永先生のは、家に帰る途中自転車に乗っている時、家へ帰って風呂に入っているときまで思い出されてジワジワとあとあとまで痛いです。」
K先生は、つまらぬミスをするものを直すために、その瞬間大声で「こらっ!」と叱ってこつんとアタマを叩く。私のは、どうして同じパターンのミスを繰り返すのかを、授業中みんなの前でその生徒特有の頭の使い方のくせに問題があることを口頭で説明する。私が説明すると、他の者が爆笑する。
先の生徒に、
「じゃあこれからはぶって欲しいと言っているのか?」と冗談で尋ねると、
「そうではなくて、もう少し手加減して欲しいと。自分の気がつかなかったことで注意されて、友達にはそれが分っていたかのように笑われるのは結構辛いもんです。」とか言うので、
「良かったじゃあないか、気がつけて。」と答えると、
「はあ、よかったのはよかったのですが、でも‥‥。」としどろもどろになる。私が、
「つまりキミはこの前にも言ったように、ややぼやっとしたアタマで思い浮かんだことから、まるで何も考えずに繰り返し読んだマンガのページを括るように、鈍いアタマでゆるゆると考えてしまう。そうではなくて、今練習していることがなんであるのかをはっきり捉えて、その練習に打ち込んだ方が良いと思うんだよ。過去なのか現在なのか、単数なのか複数なのか、疑問なのか否定なのか、各ページの上にもこのことについての練習であることが明示されている。一つの遊びのルールが説明されたら、するべきことはそのルールで自由に遊べるようにするだけ。そうすればミスはなくなる。ちがうかな?」
気がつくと教室はシーンとしている。
「こらみんな、こんなことで深刻になるな。笑え!」
でもなぜか誰も笑わない。
私はやり過ぎたと感じた。
私は相手にすぐにはできないことを要求しているのである。
「きついことを言うかもしれないけれど、それをいつまでも強く気にするな。多くのことは気がつけばある時できるようになっているものだ。でも目の前にやってきたことはできるだけ早く解決できればそれにこしたことはない。」
まだ若く試行錯誤を重ねていた時期だった。
生徒の一人から、
「先生が冗談を言い過ぎるため、何が本当かウソなのか分からなくなってしまうので冗談をやめて欲しい。」と言われたこともある。
「じゃあこれからは、一切冗談を言わない。」と言って、黙々と授業を進めると、妙に緊張感がある状態になり、しばらくして生徒が、「先生、たまには何か冗談を言って下さい。これじゃあ息が詰まってアタマに入りません」と言うので、
「それってほぼ冗談だろ」
「いいえマジです」
「ではこれまで通り冗談で授業をして欲しいもの手を挙げて」と言うと、
皆一斉に手を挙げる。言い出しっぺまで手を挙げているので、
「何だキミは」と言うと、
「考えを改めました」と笑みを浮かべて言う。
「冗談だったわけだな?」
「そうです。冗談でした」
このクラスは、2学期末、何と9人中7人が評定5となり、地域の公立中学校の父兄から、「英語はあの塾のあの先生に習わないと5がつかない」という噂まで流れたそうである。懐かしい想い出である。あの子どもたちは今どこで何をして生きているのであろうか。
最近私は生徒を叱る時に、口で「ピシピシピシピシッ!」と言いながら、同時に生徒の目の前で手を往復ビンタするようにひらひらジェスチャーして、「これくらいで自殺するなよ」とかやったりしている。生徒は笑顔でこれを受けるが、結構効果があるようだ。世間の教師も、もっと生徒を笑わせることを心掛けると良いのではないか。ふだんよく笑わせてあれば、大事な時に真剣になればよく伝わると思う。しかし、ふだんから冗談なしで厳しいだけだと、ここぞというときには手が出てしまうのだと思う。