最近の若いもんは本当にすごい。
「不登校」もそうであるが、自分が「嫌だ」と判断したら、たとえ将来の必要性があろうが、何でもやろうとはしない。
読者はどう思われるか。
「嫌だと思ったらもうやらない。嫌なんだからしょうがない。」
この「現状」が了解できない人は、おおよそ「教育」を継続することができないはずである。
「嫌だからこそやらない」と言っている者に、「嫌でもしなければならない」という立場を貫けば、その結果は、決して収束のせぬ「渾沌」に至ることは自明だ。
そこには、それとは別の「アプローチ」が必要なはずであるが、「真面目」な人はそれに気づけない。
球種を設定したバッティングマシーンではあるまいに、同じ球が飛んで来ないことを怒っても始まらない。
子育てが自分の思う通りに行くかどうかは、自身の過去を顧みれば、誰もが「否」と言うことだろう。
どこまでフォローするか、どこまでフォローしないか、それによって「未来」における「認識」が予め決定している。
どこかのミサイルではあるまいし、思い通りにはならないことは教育の必然である。
教育とは、その「背後」にあることの認識作用である。
元気に活動し、それで肩で風を切ろうとして追体験しながら生きて行く。
そのためには、「ひどい目」に遭うことを厭わない。
そのための最大限を油断せずに実行する。
それが正着であることを、本人も世の中も了解せぬこと、まことに嘆かわしい。
「直観」ではなくて「感情」が支配すれば、教育の結果方向性は限りなく「未定」である。
自分が、その自分の子が、「大したことのない人間」であることがどうして了解できないのか、そしてそれを喰い破るためには、恐ろしいほどのエネルギーの放逸が必要であることが自明であること、それに意志的に気がつく者を「賢者」という。
我々は、それ以前の「原石」である。
どうしてそれに気がつかないのか。
不思議と言えば不思議である。
読者の「長生き」を祈る。
以上、当然のごとく、V-net的に、「冗談」で書いた。