実は、おおよその社会問題は言語使用の問題に帰結すると言っても過言ではない。
個人の呟く言語は、その個人の有り様を本人無意識的に規定する。
そして、これに対応すべき真っ当な言論は、その意味に直接的に反駁する意味と効果を持たなくてはならない。
教師は、これができなくなった時にその「生命」を半ば終えると言ってもよい。
何かをしようと勧めた時に、「カッタルイすよ」と言われたらどう反論すべきか。昔なら、「馬鹿野郎!」と引っ叩いてやらせたかもしれないが、今の世ではその手は使えない。つまり、子供に何か指導したければその子どもを説得する言語使用能力がなければダメなのである。
「カッたるい」への論理的反論は、これへの答えを自分では考えずにそのうち以下に記されるであろうと期待してこれを読んでいる読者と同様(失礼)、なんかできればやらずにすませたいから、それへの同意を期待して、そうでなければやる気になる反論がなければやらなくてもすむことになるという高度な戦術(これは同時に世情に欺かれやすい)に対応するものなのである。
この「戦術」を思いついたのは、現在カッタルーイ鳥絶滅作戦決行中のV-net中3少年、アラ嫌だねーのA君であるが、彼が今、これまで重力界の呪縛に対抗することを回避した因果応報に対面し、その次の哲学を生み出すことに躊躇するのは、「同朋」としていささか「ザマーミロ」という心境でもある。
しかし実は、今晩このことの記述に至るのは、A君に続く天才可能性中2少年S君の「気分でない」という文言についての対処考案がこれにシナプス的に至ったのであることを、今後この観察を継続的に行うことが正着であると判断した「教育作家」として半ば韜晦的な告白のためとせざるを得ない。
すべての言説は「レトリック」であると喝破しようとするとき、そのレトリックには「相手」が必要であると言う究極的な事実が、その発信主体となる者とその受信主体となる者の両方にとって明らかになる。この認識において、「気分でない」ということには、「もしすべての人が、『気分ではない』ということを理由にするならば、この世の中が全く成立しなくなることは自明だから、『気分ではない』ということは、より「幼児」であることの表明に繋がり、やがて本人にも矛盾していることであることが了解されてしまうから「ナンセンス」であるという反論が可能なことになる。
そしてこのことが了解されると、「カッタるい」は、「やる気がしない」の表明である「気分でない」の部分集合に包含され、「では、どうして、息は無意識的にしているのか」、あるいは「キミはマスターベーションをしないのか?」、「カッたるいはここでの共同作業を拒絶することだから、すぐに目の前から消えて二度とここに現れるな。そうでなければここではカッたるいを考えるな」と反論することなど(後は教育環境設定作家の秘密)が正着となる。
ま、ともあれ、これらの人たちは、もっとオモロいことがあることの可能性を捨象する人たちであるから、永遠に重力界の呪縛の中にとどまり続けることに飽きるまで待つのが正着なのかもしれない。でも教育は、敢えてそれに反論する精神でなければならないと思う。