先日、妻の妹から聞いた話である。
私の甥は、この四月から幼稚園に通うらしい。
通うのは近所の私立幼稚園。家の近くには私立しかなかったそうだ。
が、本人はともかく、その母親である妻の妹は、今からうんざりしているらしい。
今月、その幼稚園の入園説明会なるものが催されたらしいのだが、そこで言われたことが、様々な規則、規則、規則・・・。
「4、5月は決して子供を休ませてはいけません。嫌がるかもしれませんが、必ず通園させて下さい。いま、ここで『休み癖』がついてしまうと、すぐズル休みしてしまう子供になってしまいます」等々。
中高一貫校に通っていた、我が義妹いわく、「中学、高校時代の大嫌いだった教師を思い出した」とのこと。
幼稚園ぐらい、休み癖がついたって何の問題がある? 否、そもそも現今の教育制度に不適応に育ったからといって、それで全てが台無しになるわけでもなかろうに?
・・・などと、遠い昔に、登校「拒否」児童だった私は思う。が、そこはぐっとこらえて、義妹には、「話半分。中庸がよい」と、さしあたり伝えておいた。
いずれにせよ、幼稚園ですら、こんな感じである。
「・・・してはいけません」「・・・すべきです」「・・・しなさい(して下さい)」。
誰だって嫌になる。いや、昔はそれで通じただろう。少なくとも私の母の世代くらいまでは、そういうものだと皆、納得しただろう。だが、そんな価値規範はいまは崩れてしまっている。
もっとも、幼稚園の先生が悪いわけではない。彼・彼女は本当に親御さんのことを思ってアドバイスしてくれたのだろうとも思う。少なくとも悪意は微塵もないだろう。
では、ウチの義妹が社会通念に未熟な母親だったせいだろうか。あるいは登校を「拒否」したかつての私が。
私はともかく、義妹はいたって普通の幼児の母親である。まだ若いが、私から見れば、実にしっかりとした母親だ。
つまるところ、現在の教育制度のなかでは、幼年教育を含め、教師・親・そして子供たちの間に、全く共通の規範意識が形成されていない。
幼稚園の話はおいてもいい。だが、共通意識の崩壊は、小学校、中学校に至っては、なおさらひどいように私は思う。
たとえば、かつての教育における規範意識は「儒教」が担っていた。これは松永先生の受け売りである。が、私自身もそう感じる。
かつての教師は、その「儒教」的規範に則って、「軍事教練」的教育を行っていれば、それで良かった。「整列!」、「前ならえ!」、「休め!」、「そこ、列からはみ出して、『休め』の姿勢が崩れているぞ!」。
思えば、学校って、自衛隊の訓練場か何かのようだったと思いませんか?
ただし、私はそれが悪かったなどとナイーブに言うつもりもない。そうした「規律・訓練」が、社会的に有用であり、また有効であったならば、それも一つのあり方だろう。無論、政治思想を学んだ私としては、批判をいくらでも書き出せるが、それはこの場で言うことではない。
問題は、そうした「儒教」的価値観が、現今の社会では完全に崩れていることである。
学校に子供を通わせる親にとって、教育とは、もはやサービス産業である。当然であろう。塾、その他の教育産業が存在する現在日本において、学校だけをその例外としてみることは、意識的にはともあれ、無意識的には難しい話だ。というよりも、教育産業に限らず、先進社会において、サービス性の伴わぬ事業など、もはや在り得ないのだから。
だが、私の生徒等の話を聞く限り、学校では相変わらず「軍事教練」型の教育を行っているようだ。私立校の多くも、例外ではない。また近年では、大規模塾でも、その傾向が見られるらしい。
これでは、学校教育において、教師と保護者との間に意思疎通の齟齬が生じるのも当然である。
だが、保護者や教師はまだいい。子供たちは、学校にどんな価値を見出しているのか。
おそらくだが、子供たちにとって、学校とは「鵺(ぬえ)」のような存在ではあるまいか。
「鵺」とは妖怪である。頭や躰や手足、尻尾も各々別の動物の要素でできた、この「何とも得体の知れぬ妖怪」を、「鵺」と呼ぶ。
明晰に勉強を教えてくれるわけでもない、各々の悩みに親身に応えてくれるわけでもない、といって、そこは「遊び場」でもない。ただ、口うるさく小言を言う大人がいるだけの空間。
皆が皆、そう思っているわけでもなければ、地域、通っている学校、教師によっても違うだろう。ただ、そう思っている子供は少なからず存在するように思える。もちろん、私の仕事柄、いささか偏った意見の集積であるのかもしれないが。
こうした「儒教」的価値観の崩壊を、どうして現実の学校関係者は感じられないのか。否、実はほとんどの現場の教師は感じているはずである。おそらくは私など以上に。
そして、現場の教師たちはきっと、変えようと必死の努力も試みているに違いない。でなければ、これほどの数の鬱病患者が教師から出るはずもない。
問題はそれらの教師の手足を縛る、学校制度のシステムである。
既に従来の価値観が壊れきっているというのに、かわらず「軍事教練」型の教育を教師に強いる、「学校教育」の「型」を維持しようとする者たちの存在である。
では、その制度設計、「型」の決定を下しているのは誰か? 教育委員会か? 日教組か? 文科省の役人か?
それら全てかもしれないし、あるいはそれら全てが何の「仕事」もしていないせいかもしれない。
「責任」の所在はどこにもない。したがって、誰も決定を下さない。「変革」を起こす主体が存在しない。いわば「無責任の体系」。
要は誰もが皆、目の前の仕事をこなしているつもりでいるが、最初の、あるいは最終的な判断を誰も下せずにいるのが、現今の公的教育の現状である。
こんな寓話がある。
巨大なアフリカゾウが肉食獣に追われて走っている。四本の足は懸命に大地を蹴ろうとしている。心臓ははちきれんばかりに血流を送り出さんとしている。にもかかわらず、その動きはとても鈍く、遅い。
而して、ゾウはやがて、そのノロマな動きのせいで、肉食獣の餌食となった。何故か?
そのゾウの脳みそは、とっくの昔に壊死してしまっていたからである。
以上、徒然なるままに(というほどヒマではないはずなのだが)、長々と乱筆を重ねた。