前回、書いた「恐ろしい」話。
少々、誤解を招く書き方をしてしまったようだ。申し訳ない。
あそこで書いた「話」は私の教えている生徒の話ではない。あくまで、その生徒のご家庭で「又聞き」した話だ。
私とは別の、所属も異なる講師が、全く別の場所で教えている、全く別の「小学生」の話である。
ちなみに私のみている生徒は、夜は十時過ぎに寝てしまう、まったくもって健康な子供である。
誤解して読んでしまった方々、そして「話」を聞かせていただいたご家庭には、申し訳ないことをした。重ねてお詫び申し上げる。
以上、前回の「話」についての誤解に対する訂正まで。
で、訂正だけでは何なので、また別の話をしたい。
前回、好奇心についても書いた。
好奇心とは、物事や出来事について、まずは素朴に「これって何だろう?」、「何でこうなったの?」と考えることから始まる。
こうした素朴な好奇心を大人が持ち続けることは、実は結構むずかしいことでもある。
色々な知識が邪魔をしてしまうからだ。常識を疑わないから、と言いかえても良いかもしれない。
ところが私の考えでは、勉強ができる、できないに関わらず、子供はふとしたきっかけで、この好奇心を強く刺激され、何事かに熱中し始めることがある。
以前、教えていた生徒で、親御さんいわく「全く勉強が嫌い」な生徒がいた。
実際、暗記が必要な勉強は、大嫌いな様子であった。
ところが、この生徒に日本史を、通説とともに異説、珍説を交えながら教え始めると、何が面白かったのか、やがて興味を持ち始め、ついには時に私自身の凡ミスを訂正するほどに歴史好きになってしまった。最後には、世界史を勝手に勉強していた。
あるいは、こんな生徒もいる。
あるとき、ブイネットの別の先生が、この小学六年生の生徒に、日本史で不思議に思うこと、つまり歴史上、「何で?」と思うことを幾つか考えてきてみろ、とお題を出した。
するとこの生徒は、行きか帰りかは知らないが、電車での通学時間のなかだけで、なんと二十個もの「問い」を用意してきたのである。
ちなみに、私も同じお題を出され、色々絞り出した結果が、せいぜい十個であった。
このように、子供の好奇心は、刺激さえ与えられれば、次から次へと芽生えてゆき、そして育まれていくものであると私は思う。
しかしながら、現在の教育の現状おいては、かような子供たちの素朴だが重要な好奇心の発達が、多くの場合、阻害され、あるいは封じ込められているようにさえ見える。
何ゆえにそんなことが起こってしまうのか?
前回の「恐ろしい」話は、そうした教育の現状を端的に示した事例として、書き記したものでもある。