仏教とお葬式のこと(2)~葬式仏教になった原因は? | いま仏教があなたを癒す! 

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多くの人が生活に疲れ、仕事や結婚生活で悩み、病気や死への恐怖におののき救いを求めています。でも、仏教を知ることで何かが変わります。

前回の続きです。

釈迦は必ずしもお葬式を重視はしていませんでした(文献からそう推測できます)。それならなぜ、日本では「葬式仏教」という言葉が生まれるほど、仏教はお葬式と密接につながってしまったのでしょうか? その理由は歴史をさかのぼることで見つかります。

徳川幕府の禁教(キリスト教の信仰禁止)は学校教科書にも載っていますね。これは、戦国時代に日本にやって来た南蛮人~すなわちポルトガル人やスペイン人~のカトリック宣教師たちが非常に巧みに、しかも短期間に信者を獲得したようすを見ていた関係者が、一種の《恐怖感》から採用したと云われます。

恐怖感というのは何か? それは、国内の仏教が衰退してカトリックが強くなってしまう~という単純な宗教上の話ではなく、日本がカトリック国(当時はスペイン・ポルトガルが強国だった)に支配されてしまう、すなわち植民地にされてしまう~という恐怖だったと考えられています。

実際、宣教師たちは「貿易商人・スパイ・布教担当者」のそれぞれの顔を使い分けていました。織田信長なども、本願寺や武田信玄など周囲の強敵への対抗上、かれら宣教師やその背後にある修道会と強いコネクションを築いたようです。そして、その理由はもっともな内容です。

たとえば、戦国大名にとって最新兵器であった鉄砲の弾薬材料なども、当初は国内で生産できなかったため宣教師に輸入を手配してもらっていた、などの理由です。もちろん海外の情報も欲しかったでしょう。

信長の場合は、そんなカトリック宣教師側のサービスと見返りに、イエズス会から大陸(主に中国)への軍事侵攻を要求されて断ったために、本願寺の変に見舞われたという説もあるくらいです。まあ実際には、公家勢力の光秀に対する要請もあったような話(最近の歴史研究)で、複雑な要素があるでしょう。要するに、宣教師たちはかなり手ごわい相手だったのです。

それで、むしろ安全保障上の見地からキリスト教を禁教としました。またついでに、日蓮宗不受不施派も禁教としました。そこで信者は過酷な弾圧に見舞われました。誰もが自分が信者(キリシタン)ではないと証明しなければなりませんでした。それができなければ、旅にも出られません。その前に、拷問と村八分でしょうか。

ここで寺請制度(てらうけせいど)-寺檀制度とか檀那寺制度と呼ばれることもある-が導入されます。この制度は、自分の住む地域にあるお寺が「この人物はうちのお寺の檀家さんですよ=キリシタンではないから大丈夫です」と、自分の身元を保証してくれる制度です。

お寺は自分の宗派などに関係なく、とにかく地元にあるお寺なのです。各地域の人が決められたお寺に割り振られたということです。結果、当時の日本国民(各藩の領民と天領の住民)のほとんど全員がお寺の檀家となったのです。別の言い方をすれば、お寺が行政の一部になってしまったのです。

これで、仏教界とお寺は安泰になりました。檀家(信者・門徒)がつねに確保されていて、努力せずとも営業的には安定します。当然、鎌倉仏教を開いた各宗派のリーダーたちのような優れた人材は出て来なくなりました。はっきり言えば仏教は活力を失ってしまったわけです。

檀家の葬式や法事などで黙っていてもお金が手に入る~これが今に至るまで一般大衆の口から頻繁に飛び出る〈葬式仏教〉という言葉(ある意味では、仏教への蔑称です)を生んだ歴史的背景なのです。

坊さんたちは檀家の葬式(読経・戒名・その他)・法事など、いろいろな行事のたびに利益が確保されて左団扇の生活になったわけですから増長もします。お葬式などは地域社会全体で取り組むイベントだったはずで、回らないすし屋の請求書ではないですが、場合によっては「もらい放題」だったかもしれません。

また、実際に記録にも残っていますが、寺の普請などのときに坊さんの要求するお金を工面できなかった檀家に対して、寺側が「檀家から外す=キリシタンでも日蓮宗不受不施派の信者でもないことを保証しない」と脅した例もあります。いやはや、です。

こうした状況が長く続いたわけで、庶民は陰では「坊主丸儲け(ぼうずまるもうけ)」などという言葉さえも口にして、僧侶に対する複雑な心境を吐露していたのです。


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