放浪理系女史ミドリカワこと酒井さやかです。
最近思うことを少しだけ。
『科学的』なことを万能と思いすぎていやしませんか?
そもそも科学って何であるかを考えて仰っていただけてますか?
ノーベル賞を受賞した内容ですら、覆されて取り消しになったこともあります(遥か昔ではありますが)。
後年、検証されて訂正されたこともあります。
未だに正しいとされることも受け継がれていますし、それも踏まえて先人先輩への敬意は持ち続けたいもの。とはいえ、それを妄信的に信じるのではなく検証しながらレベルアップする道を考えながら進みたい気持ちもあります。
そもそも科学の定義を自分なりに定義して責任持って発信できる方々がどれだけいらっしゃるのかとも考えてしまいます。
正直なところ、ミドリカワも飛び交う情報のなかでこれでいいのかとか自分自身の未熟さや過ちを感じることも多々あります。其処からどう発信するかも難しいと思いながら、書いております。
いま科学的と云われていることは現時点でOKとされていても、いつ価値観の変化で世間一般的の受容度や需要が変わるかもしれません。
だからこそ、科学と云われているものは絶対ではないということを思わずにはいられません。これからもその思いは捨てないと思います。
こちらはミドリカワの個人的意見として流してくださいませ。
『科学的』であることはあくまでも論拠を強化するものです。その中で、少しでも真実に寄与できるかどうかの視点と考察する力を其々が持つべきものではないかということを。
事実かどうかは実際にそれと同居しているかはかぎりません。
かといって、異なる主張を論破するものではなく、況してや攻撃の対象として存在打ち砕くことなく、互いに尊重しながらライフスタイルや価値観の差異があることを受容する度合いを高めていけたらということを。
自分自身はどちらかというとメジャーでもなく、好感度は低いニッチでヲタクなスタンスからの表現スタートでした。
でも、異端であるのは恥どころか誇りにしたいと思うようになりました。
かといってメジャーを闇雲に否定することはできません。受け入れられる、認められる根拠が其処にあるのですから。こればかりは否定するにも限度は早暁の内に見えてきます。
論拠はその内容だけでなく、発信するその人となりにかかっているのだと考えるに至りました。
無論、ミドリカワはいまだその境地ではありません。
まだまだ高めなければならないですし、能書きの段階です。
『科学』というものは、実は誰がどのように云うかも変わりますし世間の受け止め方や信頼性も千差万別です。
受け止めた情報も処理の仕方も違います。
それを認識したうえで、科学とは何かという一つの思いを自分なりに改めて見直したいものです。
他の答や表現はもっと沢山出てくるとは思いますが、先ず浮かんだ一言で、ミドリカワなりのいまの考えを出してみます。
『再現性による普遍と日常の事象から、見いだした認識を慈しみ尊重すること』
拙いので恐縮ですが、やはりうまいことは言えないのは承知です。
個人的な狭い見解になりかねない言い方かと思いますが、やはり、そこから生まれる共感と体感(体感させるわけにいかないなど制限される場合もありますが)が必要ではないかと。
だからこそ『科学』なことを騙るためには、真実を探究する目線・知性と思いに加えて、伝えるためには語るに足りる信頼性や(あれば)影響力も必要なのかもしれません。
科学を見つめるという力も見た目とはまた違う美の要素になるとしたら嬉しいです。
それで身の回りに起きることを冷静さとともに、未来への展望に繋げられる視点に繋げられる人が増える希望になれたらと思うのです。
自然科学の見せる美しさは計り知れません。
それを広く、美しさという視点で語れる(ヘンタイさもあるけど)面白さを持てたらと考えるのであります。
私は異端である必要もないですが、伝えられることはあると思います。
あまりにも計り知れない存在のまえに、分かったような口はきくわけには参りませんが。
少しでもその美しさの一端や面白さを何らかの形で表現できたらと思います。
そんなわけで、追究探究は止めることはできないのだなと、またヲタク根性が出てしまうのでありました。
ではまた。
