ネガティブは罪ではない。 | SPACE BOX

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放浪理系ラテンジャズミュージシャン碧川サヤカ(さかいさやか)のページです。
日々の出来事や思いをつれづれなるままに。科学と日常、音楽と、好きなものを好きなだけ語ります。

放浪理系女史・ミドリカワです。

最近ふと思うこと。

だいぶ前から、ある単語を別の漢字に当てはめて、ポジティブな方向に表現するとかネガティブさを無くそうとか、そんな動きがあるのですが。
仕事→志事という当て字に、おつかれさま→憑かれるなど想起されてよくない、などね。
言葉の力は強い、だからこそ意識して使われている方々もいらっしゃいます。

勿論、きちんと言葉意味合いと向き合って行動に映されているのであればいるのなら最高ですけどね。

実を申しますと、世間の流れに逆行しているのかもしれませんが、物凄く違和感を感じます。
寧ろ苦手ということに気付いてしまったのであります。
新しい意味合いを持たせる、という試み自体は否定しません。時代に即したもの、といえばそれまででもあります。
好きな方々が使えば良いとも思いますし、ただ、ミドリカワは結局自分のやり方として受け入れられずに使わないというだけでもありますが。

元々の漢字や響きも意味があってのこと。
ポジティブの押し付けや、闇雲なネガティブの否定は苦痛なのであります。もともと明るさを放ちまくるというキャラではないですし(笑)。
陰陽のバランスあってこそだと、つくづく思うのです。
強すぎる光は、時として自らのペースを乱します。静かに落ち着く場所はやはり欲しいのです。

ポジティブに勢いをつけているのであれば、素晴らしいこと。
しかしながら、『ポジティブ疲れ』を否定するのは良くないのでしょうか、とも。これは相変わらず訊かれます。

そのたびに答えるのですが、やはりネガティブさを無闇に隠す必要も無いと思います。自衛本能としても認める価値はあるのではないかと考えるのです。だからといってネガティブに嵌まれとは言いませんよ。精神衛生上、悪すぎます。

立ち止まって根を張るには、ただ『イケイケどんどん』だけでは疲弊するばかりです。出がらしと成り果ててしまいかねません。養分として吸収するものも欲しいわけです。

必要なのに無駄な同情への期待や言い訳をして動かないのは論外だと思います。が、必要ないのに無理して動くことも違う気がします。

『良いことしている自分』に酔うのも、酔われるのも、もう御免であります。

出来ていないものは出来ていないのです。
逆に既に次に行くべきところを、見当違いな労力や、卒業のタイミングの見過ごしで逃すことになることも誰かのためだからと引きずって遠慮することもないのです。ミドリカワの場合は、折り合いの付け方ももう少し学んだほうがよいのかも知れませんが。

それを(向き合うべきテーマでありながら)目を瞑り、別の意味合いに置き換えたところで、何が進むというのでしょうか。


また、本当にそれを求めているかどうかという自己基準を、矢鱈と『あなたのため(本当は自分自身の都合のためかもしれないのに)』『みんなが楽しむためには…』などと押し付けてはいないかと。絶えず自ら問われる感覚もなきにしもあらず、です。

あれこれ見直しをしていくなかで、自らの力量についても軌道修正してまた実力をつけるしかないのです。その先に、別の愉しさも厳しさも出てくるでしょうね。

ありのままでいたいなら、ありのままの現状と現在地をよく観てから考えたほうがいいかなと。響きのよい言葉で誤魔化さないで。


………とりとめなく、考えるのでありますが。
ただ、今は出来ることを焦らず淡々とやっていく。これに尽きるのであります。