体罰に関して | ノリーヌ・ディオン (作曲家 アコーディオン奏者 長坂憲道)

体罰に関して

僕は今まで誰にも話したことは無かったけど、体罰で悩んで悩んで、実は学校を辞めたことがある。

 

今まで、説明もめんどくさいし、高校は普通に留年して4年行ってたということにして話していたが、実はそうじゃない。

 

幸い、ネット上の情報でも僕がどの高校を出ているのか?という事実は、後に入学~卒業した高校名しか出てこない。

 

おそらく、誰も僕のことなんて覚えてないんだろう。

 

今さら、なんていう高校に居たか?なんて口が裂けても言うつもりもない。

 

僕は1学期在籍しただけで自主退学したので、多くの同級生に覚えられていなくても当然。

 

とにかく体罰の厳しい学校だった。

 

正座させられて両腕が耳にぴったりと付くように伸ばした状態

で上に揚げた状態で1時間。

 

少しでも腕が曲がったり、ふらついたりすると体育教師に竹刀でボコボコに殴られてしまう。

その体罰が施行されるには、理由もあると言えばあるのだけど。

 

それは遅刻。

 

体育の時間に一人でも遅刻してしまうと、その日の体育の授業は中止となり、連帯責任ということで全員揃って体罰が実施される。

他には、クラスの誰かが女の子にちょっかいを出した(スカートを捲った)とかで、お前らのクラスはどうなってるのだ!連帯責任だ!ということで体罰が実施されたのも覚えている。

僕は遅刻もしてないし何も悪いこともしてない。

 

連帯責任って何なのか?悩みに悩んだ。

 

自分が何もしていなくても、クラスの誰かが悪いことをすれば体罰だ。

 

じゃあ、誰か悪い行いをしようものなら、正義感を発揮して、それを窘めるのか?

 

そんなことをすると、たちまちイジメが始まってしまうことも目の当たりにした。

 

こんなところに居たら、いつか殺されると、そのイジメのターゲットとなった生徒が僕に言った。

 

僕は彼を助けられないことが悔しくて泣いた。

 

僕は彼の顔も名前も、実はよく覚えていて、絶対に忘れられない。


先生にこのことを話しても「それは正義感が強すぎる」と言われたことも絶対に忘れない。

日常的に体罰を執行していた教師たちも絶対に許せないが、この時に「正義感が強すぎる」と言葉を放った担任教師の罪が最大だと感じている。
 

ターゲットとなった彼は、正義感が強すぎるという理由にて、イジメられても仕方がないという見解。


学校も教師も彼を守る気が皆無。

ここで僕が彼を庇ってみても、共倒れとなるのが必至だろう。

やがて僕がターゲットになるかもしれないと、その時に動けなくなってしまった自分の感情もよく覚えている。

 

その後、体育用の更衣室で僕の腕時計が盗まれたのも覚えてる。


母に買ってもらったばっかりの腕時計。


自分の大切な物を盗まれても、怖くて被害すら届け出ることもできない。

 

体罰も嫌だし、よくない行いを窘めるのも怖いし、結局は僕はその高校から逃げ出してしまった。

 

 

 

その経験は「逃げた」という罪悪感でしかないから、一つ目の高校を中退して別の高校でやり直した事実を今まで外に向けて話すことができなかった。


あのまま、僕があそこに残っていたら、今の自分は絶対に無い。

 

ひょっとしたら、生きていないかも知れない。

 

 

 

体罰も紛れもない暴力。


当然イジメも許しがたい暴力。
 

暴力は人の心が全く動けないように固まらせてしまう。

 

判断する力を奪う。

 

人の心を暴力で育むことは絶対にできない。

 

そして、体罰によって受けたストレスは、そのはけ口が必ず弱い者へと向けられてしまう、暴力の連鎖。

 

 


暴力で育った人間は、暴力を使わずに人を育む方法を工夫できない。

 


高校の非常勤講師として教育現場に携わって13年。

 

その場に立つにあたり、まずは体罰だけは絶対に許してはならない!と、これを誓った。

 

どんな理由であろうと、その場を取り仕切る人が誰であろうと、人が人を殴ったりなど、身体的、精神的に苦痛を与えたり制裁を加えても良い理由なんてものは一つも見つけられない。

 

 

 

最近、巷で話題となった件(具体的に書くつもりは無い)で、当事者同士は理解~納得済みであるってことなら、その場面はそれでいいのかもしれない。

 

あの人一人だけの行動を取り上げて非難するつもりは無い。

 

そもそも、あの場で収拾がついていた事象であり、その後も問題とはなっていないのなら、実際にあの場に居なかった無関係者にとって、知る必要すら無かった事実だとも思ってる。

 

雑誌に載せて話を拡げてしまうことで、暴力の当事者を叩いたつもりが、当事者とくに子どもの立場が追い詰められてしまうとも思う。


なので過去にもこれからも、絶対に個人名を挙げるつもりも無いし、あの人一人に向けて言うつもりもない。

あの事象を受けて、安易に暴力を容認するようなことを無責任に言い放った全ての人に伝えたいだけだ。

あの件が全くの無名人、例えば学校の先生の振る舞いであっても同じことが言えるのか?

 

例えば、あれが学校の軽音のライブで、生徒があれと全く同じ状況のことをやらかして、それを受けて顧問の教員があれと全く同じ振る舞いをしたら、全国民意見として総非難とならないか?

 

このご時世おそらく、その教員は懲戒免職となる可能性も高い。

 

 

 

ああいった暴力での制止に至るまでに様々な理由があったのも子どもに非があるというのも全て理解できる。

 

が、それらの全てはどれ一つとっても暴力を容認るする理由にはならない。

 

それと暴力は全くの別次元だ。

 

理由や人によって、暴力が許されたり許されなかったりするなら、そこは法治国家ではない。

 

それだけの信頼関係?親子に匹敵する関係?

 

それだけの信頼関係があるというなら、本番であのようにならない指導ができていない状況に矛盾を感じるところでもある。

 

それに、信頼関係とか親子関係とか、いかなる関係性であったとしても、それは暴力を肯定する理由としてはならない。

芸術もスポーツも・・・指導に暴力は無用だ。

 

学校現場で毎日子どもたちと接してる教員なんて、どれだけ子どもに非があったとしても、これは暴言にならないか?体罰に当たらないか?と、一つ一つ慎重に取り組んでいる。

 

それでも、学校の教員の振る舞いとなると、ちょっと何かがあると全く関係の無い人にまで猛烈に非難される。

 

そういう時に「学校の先生はロクな奴は居ない」って非難したことがある人も少ないくないと思うけど、自分の過去の言動も思い出して、もう一度考えてみてよ。

 

一貫性なんてないままに、大衆の「そうだそうだ!」に靡いてるだけじゃない?

 

いつも僕がこのブログで伝えようとしている他の件にも、全く同じことがいえると思う。

 

 

 

 

長坂憲道 ホームページ

音楽教室きじばとの家

[FaceBook] Norimichi Nagasaka

[YouTube] 長坂憲道

[mixi] 長坂憲道 コミュニティ

[Twitter] v_accordion (長坂憲道)

長坂憲道←長坂憲道のアルバムをiTunes StoreでGET!

Venturo Accordion Venturo Accordion
2,700円
Amazon

 

VIVID ACCORDION VIVID ACCORDION
2,700円
Amazon