おばあちゃんへ
おばあちゃんとは一緒に暮らしていなかったけど、触れ合うことが多くなったのは、私が大学で熊本に行ったころからかな?
月に一度、熊本の生目神社にお参りに行くついでにってランチしたり、旅先からハガキ送りあったり、いつのまにか文通相手になったね。
信心深いおばあちゃんとの旅は、いつも神社仏閣巡りだったね。
一番の思い出は、高野山。
2009年5月に私が結婚して12月に渡米する前に、最後の二人旅でいった高野山。
あの時、お布団並べて寝た時、いまでも覚えてるくらいびっくりしたこと。
おばあちゃんが手を胸の上で組んで、あまりにも静かに寝てたから、「おばあちゃん、死んでない?」って、本気で思ったのを覚えてるよ。
おばあちゃん心臓が悪かったから、私は心配で夜中に何度も起きて、おばあちゃんがちゃんと息をしてるか確認してたんだよ。
本当に仏様のように穏やかな顔だったので、これがおばあちゃんと会えるのは最後なのかな?くらい思ってたけど、あれから9年もたったね。
旅行に行くくらい元気なくせに、私の結婚式には、断固として出席しなかったおばあちゃん。
結婚して、日本を離れ、アメリカに行くことが寂しかったんだよね。
気持ちはわかるけど、私の晴れ姿見てほしかったな~
ほんとに、頑固で、しつけにきびしくて、曲がったことが大嫌いで、いいこと言ってるけど、口が時々悪いから、こっちが素直になれなくなったり。
いっつももう大丈夫っていうくらい、太っ腹なおもてなし、料理も手際よし、味よし、おばあちゃんの作るものは、ぜーんぶおいしかった。
着物のコーディネートは、10円玉コインの裏表で組み合わせを決めるという、おもしろいおばあちゃん。
膝悪いのに、フットワークが軽くて、どこにでもバッグ一つで旅に出る、おしゃれなおばあちゃん。
ほんとに、おばあちゃんからはたくさんのことを教わったよ。
ありがとう。
大学時代から始まった文通も、6年くらい前から減ったよね。
私が子供産んだ時、「これでおばあちゃんも安心した」と、手紙に書いた後、おばあちゃんからのお手紙が減ったのを覚えてるよ。
もしかしたら、おばあちゃんは私さえも気づいていなかった、私の胸の奥の感情を感じ取ってくれていたのかな?なんて思ったりしたけど、確かめる勇気はなかったよ。
「いつ死んでもいい。」
「早くお母さんに会いたい。」と口癖のように言っていたおばあちゃん。
身辺整理はすばらしかったね。
最期も、朝ごはんを作って、手紙まで書いて眠るように言ったおばあちゃん。
今頃、ひいおばあちゃんに会えた?
久しぶりの親子の再会、ゆっくり楽しんでね。
人は一人で生まれ、一人で死んでいく。
って思ってたけど、
母から生まれ、母に帰るのかな。
おばあちゃん、たくさんの愛をありがとうございました。
人生一生勉強。
おばあちゃんのこの言葉、いつも胸にあります。
天国から見守っててください。
けいこ