前置きが長いですよ 笑
今回は、バッハ演奏史の変遷と、1970年代のプログレバンドAreaのある作品が不思議な形で共鳴していた点について書いてみようと思います。
さて、いきなりクラシックの話からです。
20世紀前半までバッハの協奏曲の類は比較的大人数で演奏されるのが通常だったようです。
例えばカラヤンやカール・リヒター。
なぜそうだったのか? これについては、19世紀以降に生じたバッハに対する世の中の再評価に伴い、「大作曲家の作品なのだから当然手厚く重厚な演奏を行うべきだ!」という風潮によるのだろう、という説が有力なようです。
つまりは一つの楽器パートを複数人が担当して、全体的に豪華絢爛、ゴージャスな演奏を行うスタイルが中心でした。
今では信じられないことにバッハの音楽は1750年の没後以降、一般社会のレベルではほぼ忘れさられておりました。
教会や教育現場では演奏されることもあったようですが広く一般に聴かれる存在ではなく、感覚的には「昔の地味~な古典派の作曲家の一人」という扱いだったようです。
一言でいえば何もかも古臭く今の時代にそぐわない、と捨て置かれていた感じです。
この風潮が変わったのは、1829年に当時20歳だったメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」の再演を行い、それが大成功をおさめた事がきっかけとなったようです。
それ以降、バッハの研究や楽譜出版が一気に進み、現代に至るような歴史的な「巨匠」という立ち位置が確立したようです。
時代が19世紀に入ってから、人々の過去への関心が高まり、精神性・構造性・深さを求めると言った世の中の動きが出てくる時期と重なったようです。懐古
世の中が少しだけ成熟した精神性というものが価値を持つ時代に入った証だったのかもしれません。
一度は時代に合わない古い音楽として忘れさられていたものが
最も本質的な音楽という立ち位置を持って復活するという図式です。
ただ、バッハ時代の演奏編成は間違いなく小さいものだったはずです。
それが復活と同時に過大なまでに持ち上げられ、豪華な格式高い演奏がもてはやされました。
このような復活の時に必要以上に持ち上げられ、あげく別の価値観が付与されるというのもありがちな構図です。
ヒトの愚かさ故でしょうか。
しかしながら、こうしたゴージャスな演奏方法に対して異を唱える人たちもいたわけです。
古楽器を使って編成を小さくして(というより在りし日の姿に戻して)、奏法もバロック特有のものを取り入れ、当時に近い響きに戻そう!という「ピリオド演奏」という運動(その曲が作曲された当時の楽器・奏法・演奏習慣に基づいて演奏しようとするアプローチ法)が70年代以降に起こりました。
色々と揺れ戻しはあるものです。
この動きの中で、76年~77年にかけてチェンバロ奏者のレオンハルトがバッハの決定版ともいうべきブランデンブルク協奏曲(全曲)を古楽器のマイスターたちと録音した音源を完成させます。
(たまたま自分が所持していたブランデンブルク協奏曲はこの盤でした。不思議な縁)
今ではこの音源は演奏形態の転換点となる重要な録音であったと評価されているようです。
以降、バッハの演奏形態は現在ではゴージャスな大編成が少数派になるという逆転現象に至っています。
変われば変わるものです。
音楽的な観点から見た場合、小編成の優位な点は楽器の1パートがほぼ1人の担当となり、各声部が独立して良く聞こえることで対位法がより明瞭に感じられるようになること、各音の分離が良くなる(人数が少ない分、楽器の倍音の混ざりが減るため)こと、バッハが作曲した時の前提条件に合致したより原点に近い演奏になることなどにあると思われます。
ただし、現在では却ってこういう動きが定型化されすぎてしまい皆が同じ解釈となり、整いすぎて平板化するという弊害に陥っているようで、、、それはそれで問題なのかもしれません。
いや~難しいですね。膠着化の決着が次の膠着を生み出すとは、、、
何事にもバランスが大事ですね。
「音楽は生きて変化し続ける」という証でしょうか。
で、ようやくですが今回の本題はここからです。
イタリアのプログレバンド「Area」の4枚目のアルバム
「Maledetti (Maudits)」(1976)についてです。
このアルバムはAreaの「1978」までのアルバム(やはり、デメトリオ・ストラトスが在籍した「1978」までが真のAreaだと思ってますので)の中で最もフリージャズ、アバンギャルドの要素が強く、更にソプラノサックスや民族楽器系パーカション、果ては弦楽のカルテットなどArea以外のメンバーが演奏・参加しているパートが非常に多いカオスなアルバムです
ここではバンドの形態が崩壊しています。
(意識的にそうさせているようで)
曲によってはカッコよいジャズロックとして聞ける曲もありますが、狂気じみているし率直に言えばArea史上最高に聞きずらいアルバムです 笑
ただ、成立過程を考えると非常に興味深く、重要なポジションにあったアルバムであると再認識できます。
そして問題の曲は、
Il massacro di Brandeburgo numero tre in sol maggiore です。
邦訳すれば「ブランデンブルク協奏曲第3番(ト長調)の虐殺」
とタイトルのついた作品。
これ、初めて聞いた時は面喰らいます。
弦楽です。しかもバッハからの引用、、でも演奏は正当だし、
メンバーはイタリアのこの業界のプレイヤーたち
演奏に参加しているメンバーはこの4名のみ、つまり純然たる弦楽四重奏です。
この4人がブランデンブルクの3番を断片的に再構成したような楽曲を演奏しています。
聴いた誰もが
「これって一体何?」
「なんで収録されているの?」となりますよね。
この曲は録音音質も他の収録曲と異なる印象があります。
まるで一発取りの音像なのです。
空間処理せず音質も粗い。
他の収録曲との音質の差から考えますと、これも敢えてそうした狙いなのだと思います。
この曲、最後まで聞くと曲の最後の最後で調性が崩壊したまま終わるのです。
これがむちゃくちゃ違和感がありまして、ⅤからⅠに行かないまま、、前回のビリーアイリッシュの記事で書いた状況と正に一緒です。
最後を綺麗に着地させるはずのバロックにおいて、着地できない楽曲
終止の構図を成立させない、解決を放棄した音楽
古典的作品を解体し、前衛的に再構成する意図が明確に感じられます。
それをわざわざここまで仕掛けをして提示する、、
Areaのアプローチも、当時クラシック界で主流だったゴージャスな厚い演奏ではなく、最小人数構成での録音になっています。
ここで興味深いのは、クラシック界がたどった「解体→再構築」という流れと、Areaがロックの側から行った試みが、同時期に起きている点なのです。
この2つがほぼ同じ76年に行われていたという事実。
正にジャンルを超えてシンクロしています。この不思議さ。
これは単なる「偶然」というより、当時の音楽全体に共通する大きな流れだったのか、と考えた方が自然に思えます。
それにしてもストラトスのボーカルは相変わらず凄いです。
このアルバムでの役割は「歌」というより「声」です。
旋律ではなく音。
音楽の方向性も固定したリズムは解体に向かい、曲の構造は果てしなく流動化し、まるで何かのイベントです。
この時期、意図的にバンド構造を解体し、どこまでがバンドなのかすらよくわからない「open band」という形態を目指していた時期のようです。
それ故にこの次のアルバム1978でのあまりの整合性・聴きやすさには違和感すら覚えます。
カッコ良く聴きやすいのに、流れとして矛盾がある不思議さ。
他の70年代プログレバンドより知名度はないのかもしれませんが間違いなく偉大なバンドです。
そして、ベーシストのアレス・タヴォラッツィ(Ares Tavolazzi)!!
大好きなベーシストです。
<おまけ>
LINEのスタンプ作ったのですが音楽とは全く関係ないし、使用用途もニッチだし、、、こりゃ売れないな、、、
自分の絵をAIに読み込ませて作成するという方法をとりました。
非常に面倒くさかったです 笑
https://line.me/S/sticker/36056125
