と書くと、惰性でいいんじゃないと言われる・・・
自ら安定や安心や安全を手放して
わざわざ困難が目に見えているほうに?
何で??
って。
私はとことん生きるのが不器用なんだろうなー
しかもそれが分かっているのに、その生き方をやめられない。。。
よくそんなことが起こるのはどうしてか考える。
たぶん「困難な」幼少期~青春期を過ごしたせいかなと思う。
それがあまりにも当たり前になっていたので、心のどこかでそれを求めているんじゃないかって。
マゾ的な生き方が長くなりすぎてしまい、そこに居心地の良さを見出している。。。
重症だ。。。
だから物事が上手く行きすぎたり幸せになろうとすると不安を覚えて、それを破壊する方向に動いてしまう。
これはどうも自然な働きらしく、
同じような悩みを抱えている人のブログも読んだことある。
たぶん大掛かりな「手術」をしないとこの思考パターン(=行動パターン)は覆せない。
掘り下げないと。
幸せな状態へいこうとしているとき心はどうなる・・?
「まやかしだ」「うつつを抜かすな」「信じるな」「落とし穴があるぞ」「あるはずない」「きっと悪いことが起きるぞ」「そんな生き方でいいのか」「刺激がない」「つまらない」「ばかばかしい」
「だから壊してしまえ」
いつから?どうして?こんなことを思う??
幼い頃、何度も何度も・・・
どころか、実家は常に警戒をしていなければいけない100%恐怖の館で、誰も私を護ってくれることはなかったし
【常に気が休まることはなかった】
私の子どもたちは気が休まっているかな。
安心しているかな。
せめてそうだといいけど。
そういえば、世の中の「普通の」人にとっては家は安心できる場所なのかな。きっとそうなんだろな。
安心、かぁ。
【幼少期~青年期における「安心」の欠落】かぁ。
よく幼児期に脳の一部分が何らかの原因で欠損すると重大な機能障害を起こすというけれど、
私の場合「安心」という人間として必要不可欠な要素が、あるべき時期に上手く育たなかったことで(恐らく自己防衛的なメカニズムにより)この回路が定着してしまったんだろうな。
それが私の不幸のつぶやきの元凶だ。
夫を選んだのは本能だった。
私が求めて止まなかった「安心」が、そこにはあった。
「安心」は得られたけど
「不幸回路」からは抜け出せていなくて、どこかで「幸せになることへの恐怖」が克服できていない。
自分から「悲劇のシナリオを作ってしまう癖」から抜けきれない。
自分が望んでいるのは「幸せ」なのか「悲劇のシナリオ」なのか分からなくなる。
幸せの中にいると所在なさを感じる。。。。
それよりすっかり愛着のわいた甘美な悲劇に小さく身をうずめていたい。。。
重症だ。。。
だから
そこに幸せな人が近付いて来ると
「あなたを不幸に巻き込んでしまうよ、近付かないで」と思ってしまうんだ。
だから時々、
子どもとも離れた方がいいのかな。
なんて本気で考える。
どうしようもない・・・