<前回より続く>
第二 質素儉約他人に依頼せず(1)
先生は安政五年の冬、藩命により大阪から江戸に出て築地鐵砲洲の藩邸内に一小私塾を開き藩の子弟に蘭學を敎授することゝなったが、當時尚ほ小身微禄の身分であった。萬延元年米國に渡航して歸朝の後幕府に傭はれ、文久二年幕府の使節に随行して渡歐する頃には幕臣同様の身分となり、幕府と奥平家とから俸禄を受けてゐられたけれども、元治元年の中津に歸省して六人の子弟を江戸に連れて來られたとき、其學資の出どころがないので、横濱出版の横字新聞を飜譯して諸藩の留守居役に買って貰ひ、又は外國から買って來た原書中の不用物を賣ったりして金の工面をしてゐられたといふ事實を見ると、其生活に餘裕のなかったことがわかる。
併しかゝる中にも貯蓄の心掛に怠りなく、慶應四年鐵砲洲から新錢座に移らるゝとき三百五十兩で有馬家の中屋敷を買取り、塾舎の建築に四百兩を費したといふ其金は固より先生の懐から出たもので、此時學友山口良藏に寄せられた書中に「これまで小生の身分不相應の金を費し塾舎も建營いたし候義に御座候へ共、有限の微力、最早金もなくなり、此後は塾を建候事も出來不申殘念に御座候」とあるが、兎に角七八百兩ぐらゐの金は出すことが出來たのである。
而して維新匇々徳川家から舊幕臣一同に對し、王臣となるか徳川の家臣となって靜岡に行くか歸農して平民となるかと其去就進退を問はれたとき、先生は無論歸農すると答へて其時から帶刀を捨てゝ丸腰となり、幕府の俸禄は勿論、奥平家からの扶持をも辭退してしまはれた。「自傳」に此時のことを記して、
其時に私の生活はカツカツ出來るか出來ないかと云ふ位であるが、併しドウかしたなら出來ないことはないと、大凡(おおよそ)その見込みが付て居ました。前にも云ふ通り私は一體金の要らない男で、一方では多少の著譯書を賣て利益を収め、又一方では頓と無駄な金を使はないから、多少の貯蓄(たくわえ)も出來て赤貧ではない。是れから先無病堅固にさへあれば他人の世話にならずに衣食して行かれると考を定めて、ソレで男らしく奥平家に對しても扶持方(ふちかた)を辭退しました。
とあるによると、其頃から何とかして自活だけは出來得る見込があったと見える。
<つづく>
(2024.10.5)