<前回より続く>
第一 一生涯借金せず(2)
百助は篤行の君子で金錢のことに就ては特に几帳面の性質であったことがわかる。又母の性質はといへば、「自傳」に母の精神から感化を受けたことが數々あった其一例として、
私が十三四歳のとき母に言い付けられて金子返濟の使をしたことがあります。其次第柄(がら)は斯う云ふことです。天保七年大阪に於て私共が亡父の不幸で母に從て故郷の中津に歸りましたとき、家の普請をするとか何とか云ふに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講(たのもしこう)を拵(こしら)へて、一口金二朱づゝで、何兩とやら纏まった金が出來て一時の用を辨じて、其後毎年幾度か講中が二朱づゝの金を持寄り、籤引にて滿座に至りて皆濟(かいさい)になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の爲めに何年もこんな事に關係して居るのは面倒だと云ふ所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある、之を掛棄(かけずて)と云ひます。其實は講主が人に金を唯貰ふやうな事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衞という廻船屋が一口二朱を掛棄にしたさうです。勿論私の三四歳頃から幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三四歳のとき、或日母が私に申すに「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う斯う云ふ事があって、大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰ふたやうなものだ。誠に氣に濟まぬ。武家が町人から金を恵まれて、夫れを唯貰ふて默て居ることは出來ません。疾(と)うから返したい返したいと思ては居たが、ドウ爾(そ)う行かずに、ヤットと今年は少し融通が付たから、此二朱のお金を大阪屋に持て行て、厚う禮を述べて返して来い」と申して、其金を紙に包んで私に渡しました。
ソレから私は大阪屋に參て金の包みを出すと、先方では意外に思ふたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です、決してそんな御心配には及びません」と云て頻りに辭退すれども、私は母の云ふことを聞て居るから是非渡さねばならぬと、互に押し返して、口喧嘩のやうに爭ふて金を置歸たことがあります(註。これは第二編にも出てゐる)
と記し、借金ぐらゐ怖いことはない、他人に對して金錢の不義理は相濟まないことゝ決定すれば借金はますます怖くなる、私共が幼少のときから貧乏の味を嘗め盡しては母の苦勞した様子を見ても生涯忘れられぬ、金錢のことに關する心掛に就ては、父母の質素感化に由るものが多いと自からいはれてゐる。
<つづく>
(2024.10.1)