第4059回 『福沢諭吉伝 第四巻』その83<第四十編 【附記】宗敎は茶の如し(2)> | 解体旧書

解体旧書

石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四十編 【附記】宗敎は茶の如し(2)

 

 本來眞宗の如きは一切、他の宗旨の事を口にせざるの主義にして、世間に廣く行はれたるも之が爲めに外ならず、宗祖の卓見として見る可きものなるに、今の末派の輩は全く其主義を忘れたるものゝ如し。斯る始末にては他の排斥どころの沙汰に非ず、早晩自から自滅の外なかる可し。其自滅は自業自得、致方なけれども、社會安寧の維持法を如何す可きや。又耶蘇敎を見れば其敎師の品行は僧侶に比して割合に清潔のもの多し。一身上に就ては格別非難の點もなけれども、布敎の一段に至れば漫(みだり)に他を攻撃して一毫も假さず、狷介孤立自から逞うする其熱心は嘉す可きに似たれども、斯くては其敎を弘めて實際に人心を感化せしむるの效能は容易に見る可らず。

 蓋し耶蘇敎が亞非利加(アフリカ)又は南洋諸島の邊など全く未開の蠻民を相手にして敎を弘むすに當りては、布敎の手段として從來その蠻民等の崇拜したる木像石像などを水火に投じて毫も怖るゝに足らざるを示し、人間の尊ぶ可きものは宇宙の間唯一の眞神あるのみとて其功徳の大なる説きたることならん。蠻民の敎化には此手段にて功を奏したることならんなれども、其筆法を持來りて我國に擬するが如きは間違ひの大なるものなれ。日本人民の中には眞實宗敎に歸依さざるもの多しと雖も、自から百千年來の風俗を存して、冠婚葬祭等には夫れ夫れの習慣あり、假令ひ下流の社會にても智徳は自から見る可きものある其人民に對して、祖先の位牌は偶像を祭るに近し、宮寺の參詣は異神を拜するものなりなど云々するときは、只凡俗の心を驚かして漫に敵を造るに過ぎざるのみ、愚の至りにこそあれば、眞實感化の實を廣くするの目的ならんには斷じて其筆法を改めざる可らず。

 我國の現状を見れば上流社會は別として四千萬の人民中今日尚ほ未だ佛にも歸依せざれば耶蘇にも入らずして純粹無垢の無宗男女たるもの甚だ多し。即ち彼等の生來不幸にして宗敎と名くる茶を飲みたることなき者なれば、此無數の男女に茶を飲ましめ其味を解せしむるは宗敎家の務めにして、商賣の前途甚だ多望なれば大に奮て其賣弘めに從事す可きのみ。我輩は茶の色の如何を問はず只その味を解せしむるを經世上の必要と認めて大に望を屬するものなり(明治三十年九月四日「時事新報」社説。これは先生の意を受けて著者の草したものである)

 

 ※■狷介:(けんかい)頑固で、自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと。片意地

 

 <つづく>

 (2024.9.29)