第4024回 『福沢諭吉伝 第四巻』その48<第二 外國宣敎師に對して(4)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第二 外國宣敎師に對して(4)

 

 先生は議論の如何に拘らず親しく外國宣敎師に交られたばかりでなく、基督敎の布敎の方法に關して種々の勸告を與へられた。其趣意の大要は、我輩は佛敎も耶蘇敎も固より區別なく自由自在に弘布せしむることを經世の便法ならんと信ずれども、たゞ失望するのは基督敎の人々が其信仰に熱心の餘り他を妨げんとするの一事である、第一に其信徒の中には他宗を輕侮して神佛を見ること讐敵の如く、甚しきは神棚佛壇を毀ち先祖の位牌をも水火に投じて自から快しとする者さへある、又その敎師たる者も往々他宗の妄誕を摘發して、佛像は木片にして神體は金塊に過ぎずなど放言して憚らざる者がある、故に心ある者は其言の亂暴なるに驚き、却て不信の念を固くする者がないではない、宗敎の宣布に第一の要は人心を収攬するにある、これを収攬するには人を驚かさず又憤らしめず、徐々に人を導いてこれを喜ばしめねばばらぬ、基督の宣敎師が眞實日本に其敎を弘めんとならば、先づ日本の慣習流俗を知って其敎義に戻らざる限りは其國人の憤るゝところ好むところに任せ、徐々に其心情を改めて然る後に布敎の目的を達すべきである、然るに其策こゝに出でずたゞ眞一文字に其敎を開かんと熱心し、前後左右を顧みず他宗を誹謗して激論人を驚かし、既に宗敎の爭端を開かんとするの萌あるは、たゞに經世上の妨害のみならず基督敎自身の失策であらうと、其布敎の方法を非難し、これに反して佛敎の布敎の巧みなるは感服すべきものがあるとて、眞宗の假名本の中から僧侶の心得門徒の掟を引用し、これらの條目を見ればいづれも人を驚かしめず又憤らしめず、温和一偏を以て人心を収攬するの意に出でたものであって、基督敎の傳道に比すれば其巧拙を同うして考ることが出來ない、

 

 <つづく>

 (2024.8.25)