第4015回 『福沢諭吉伝 第四巻』その39<第一 宗敎を信ぜず(5)> | 解体旧書

解体旧書

 石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<著者が編纂上の困難を冒し、健康上の支障を忍び、然も七年の長きに亙りて、一意専心、刻苦勉勵し、遂に此大作を完成したのは、其の勞誠に多とすべく、吾々の深く感謝する所である>慶應義塾長 林 毅陸

<前回より続く>

 

第一 宗敎を信ぜず(5)

 

 左れば先生は自から宗敎を信ぜず、又其宗旨の正邪眞僞の如きは一切これを口にせず、たゞ經世上の一點から其功徳を説かれたのである。或は先生が熱心に布敎傳道のことを奬勵せらるゝのを見て、自から信ぜざるものを他に勸めて信ぜしめんとするは如何との説あるに對しては、自分はいづれの宗敎をも信ぜざれども、一身には信ずるところのものがあって、苟(かりそ)めにも心に疚(やま)しいことをしたことはない、而して其信ずるところの何であるかは獨り自分の心に存して他に語るべきものでないから、これを問ふことはやめてもらひたい、自から宗敎を信ぜずして他人にこれを信ぜよと勸めるのは不都合だといふけれども、何分にも心になき信仰を粧ふのは自分の爲す能はざるところであるから、自から其本心を表白しながら社會の安寧のために其必要を唱ふるのである、喩へば食物の嗜好は各自に異なれども、一般を通じて人體の榮養に必要なる食物とあれば、自からこれを嗜(たしな)まざるも他人にこれを勸めて差支へはなからう、否な果して必要なる榮養物とあればこれを一般に奬勵するのが當然である、自分等の如く宗敎に淡泊なる者は別とし、一般多數の民衆に信仰の必要なることはいふまでもなく、しかもこれが經世上に極めて必要なる以上、大にこれを奬勵するのは學者經世家の勤むべき職分であるとて、大に宗敎論を論ぜられたのであるが、これに就て茲に一二の記すべきものがある。

 先生の説に、佛法は我國に傳來してより千百年來上下の歸依を得て、國内の民心に入ること最も古く最も深く、國民大多數の信仰するところとなり、凡そ日本人の家として佛法のいづれかの宗旨に屬せざるものがないといふほどの次第であって、これを國敎と稱しても差支ないものである、或は我國には佛法の外に別に神道なるものがあるから、日本の宗敎は神佛の二道なりとの説もあるが、神道はこれを宗敎と認むることが出來ない、從來我國の有名なる神社佛閣には神佛を合祀してゐた、これは中古の名僧智識がいはゆる本地垂跡の説を立て、印度の何々佛が何々神として日本に其跡を現はしたものだといふことにしてこれを合祀し、凡俗歸依の道を廣くするの方便にしたものである、

 

 ※■表白:(ひょうはく)考えや気持ちなどを、言葉や文章に表して述べること

 

 <つづく>

 (2024.8.16記)