第4008回 『福沢諭吉伝 第四巻』その32<【附記】福澤先生と醫學(6)> | 解体旧書

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 石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<著者が編纂上の困難を冒し、健康上の支障を忍び、然も七年の長きに亙りて、一意専心、刻苦勉勵し、遂に此大作を完成したのは、其の勞誠に多とすべく、吾々の深く感謝する所である>慶應義塾長 林 毅陸

<前回より続く>

 

【附記】福澤先生と醫學(6)

 

 先生は高が知れた賣藥屋共を對手として爭ふのは大人氣ないけれども、萬一此訴訟に負ければ取りも直さず文明の學理が負けると云ふ形になるから其影響は少なくない、賣藥屋は固より眼中にないが學理の爲めに戰はざる可からずと言って係爭四個年の久しきに渉り、結局大審院で時事新報の勝訴となったことがある。先生が荒唐無稽の思想、迷信惑溺の思想を排除するに毫も假借※1しなかったのは、喩へば有利有益なる果樹野菜を培養生育するには、先づ其地面にはびこって居る雜木惡草を苅倒して之を根絶しなければならぬと同様、その不斷の勞力注意は非常のものであって、先生の如き確乎不拔の信念を有して學理の爲めに勇戰奮闘した有力家がなかったならば、滿地※2の障害物を排除して斯學發達の道を開くことはなかなか容易の事ではなかったらうと思ふ。

 先生は斯くの如く漢方古流の排斥に努力せらるゝと共に、一方に於ては又自から手を下して西洋醫學の發達に力を盡されたのである。明治六年の頃、先生は三田の慶應義塾内に醫學所と稱する醫學校を設けられ、醫學を研究すると共に醫生の養成を計り生徒の數二百餘人に及んだが、醫學校は何分資金を要すること多く當時の一私塾の力では之を支ふることが出來ないので已むなく中止したけれども、今日の醫師中には此醫學所で學んだものがあらうと思ふ。

 所で此四谷の義塾大學の醫學部であるが、是れは先生逝去の後醫科大學設置の計畫を發表するや大に世間の同情を得て巨額の資金が集まり、斯る立派な學校が出來たのである。世人これを稱し福澤先生の遺徳の然らしむる所なりと云ふ、固よりそれに相違ないけれども、實際には漠然たる遺徳など云ふよりは先生の自から作られた遺物であると云ひたいのである。如何となれば此醫科大學は福澤先生と現學部長たる北里博士との離る可からざる關係因縁から生まれ出たものと云うてもよいからである。

 

 ※1■假借:(かしゃく 仮借)許すこと。見逃すこと

 ※2■滿地:(まんち 満地)地面いっぱいに満ちていること。地上一面

 

 <つづく>

 (2024.8.9記)