<前回より続く>
第一 北里の研究事業を助く(3)
(福沢の演説)つづき
試に實際の費用を概算するに、十名の學者に一年千二百圓を給して其計一萬二千圓、(此種の學者は世間に交際も少なく衣食住の邊幅を張らんとするが如き俗念もなく物外に獨立して他を顧みざること恰も仙人の如き者なれば一年の生計千二百圓にて十分なる可し)此外に一名に付き毎年凡そ二三百圓を生命保險に掛けて死後の安心を得せしむるの要もあれば、學者の身に費すもの凡そ一萬五千圓として、他は研究の費用なり、其高は際限なきことなれども假に先づ三萬五千圓とすれば、兩様合して五萬圓を毎年消費する勘定なり。
或は右の如く計畫しても、十名中に死する者あらん、又は中途にして研究所を脱する者もあらん、又は不徳義にして怠る者もあらんなれども、十名共に全璧ならんことを望むは有情の世界に無理なる注文にこそあれば、十中の五にても三にても前後節を改めずして確乎たる者あれば以て足る可し。一人の學力能く全世界を動かすの例あり、期する所は唯その學問の高尚深遠に在るのみ。
以上の趣向は老生が壯年のときより想像する所にして、人に語るも無益なるを知り一二親友の外に口外したることもなく、人生の運命は計られず、萬に一は自分の身に叶ふこともあらんかと獨り竊に夢を畫きたることもなきに非ざれども、畢竟痴人の夢にして迚も生涯に叶ふ可きに非ず。左れば今滿堂の諸君は年尚ほ少(わか)し、一生の行路に幾多の禍福に逢ふは必然の數にして、或は大資産の身と爲り衣食餘りて別に心身の快樂を求め、特に大に好事心を逞うせんとして其方法を得ざるが如き境遇に際することもあらんには、昔し昔し明治二十六年十一月十一日慶應義塾にて云々の演説を聽きしこともありと、之を思出して何か面白き企もあらば、老生の生前に於て之を喜ぶのみならず、假令ひ死後にても草葉の蔭より大賛成を表して、知友の美擧に感泣することある可し。
十名の學者のために毎年五萬圓では其額が甚だ少いやうに思はれるかも知れないが、これは明治二十六年の當時に於ける計算で、現在でいへば其十數倍にも相當することはいふまでもない。然るに實際には慶應義塾の維持さへも容易でなく、まして塾の敎育以上に高尚なる學理を研究せしめようとするのは思ひも寄らない。
<つづく>
(2024.7.11記)