第3911回 『福沢諭吉伝 第三巻』その559<第五 我國の朝鮮出兵(1)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。大正12年6月、慶應義塾評議員会は本書の編纂を決議し、石河に託した。9月に旧図書館内に編纂事務所を開設。それから7年有余を経て、昭和6年3月完成した。

<前回より続く>

 

第五 我國の朝鮮出兵(1)

 

 斯くて支那の暴慢はますます増長して底止するところなく、彼の李鴻章が、十七年の失敗後日本に亡命して爾來十年間我法律の保護の下に在った金玉均を上海に誘き出してこれを暗殺せしめ、軍艦を以て其遺骸を朝鮮に護送し、朝鮮國王に向て逆賊誅滅の祝電を發したといふ如き、眼中に全く日本國なき無禮至極の振舞であって、我國の人心を非常に激昂せしめ、對支感情は殆ど抑へ難き極度に達した。

 金玉均の暗殺は二十七年の三月であったが、同四五月の頃から朝鮮に東學黨の亂が起って、其勢頗る猖獗※1、朝鮮政府の力にてはこれを鎮壓することが出來ないので、援兵を支那に乞ひ、支那は朝鮮國王の請により屬邦を保護すると稱して朝鮮に出兵したといふ報知があった。茲に於てか流石の日本政府もこれを坐視することが出來ず、其六月五日に歸朝中の駐韓公使大鳥圭介を軍艦八重山にて急行歸任せしむることゝし、大鳥は數百名の陸戰隊を率ゐて京城に入り、續いて一旅團の軍隊を派遣するに至った。

 此出兵決定の實情に就き「後は昔の記」の著者は「是れより先き韓國に東學黨起り猖獗を極む。韓國政府援を清國に乞ふの報あり。之に加ふるに清國政府の金玉均遺骸の始末不當なるを以て我國の人氣頗る激昂し、無事の終結を見難き恐あり。四月二日夜外務大臣邸にて陸奥伯川上参謀次長と予と韓國に出師※2の下相談あり。世上にては對外交策の爲に議員解散の相談と云ひ傳へたり」と記し、其決定の次第を左の如く記してゐる。

     韓國出兵の協議

 相談の大意は、明治十五年と十七年の京城の變には清國の爲に機先を制せられて我の失敗に了(おわ)れり、此度は是非共清國を制して前兩度の損失を囘復せざるべからず、就ては在韓の支那兵以上の兵數を以て之に臨まざるべからず、今牙山に在る清兵は五千と稱す、然れば我は各處を固むる守備兵を合せて七八千の兵を動員するを要す、我兵京城に入ることを聞けば前々の勝利に狎(な)れたる清兵は必ず來りて京城の我兵を攻むべし、此時之を打ち攘(はら)へば李鴻章部下の淮軍※3四萬と稱する中二三萬を派遣すべし、然れば我も亦た之に應ぜる兵を出して、平壌邊にて一戰に勝てばそこで和を講じ、韓國を我勢力の下に置けば以て一段落を爲すべし、但し初より七八千の兵を出すとすれば伊藤總理大臣毎(つね)に平和主義の人なるが故に承諾すまじと外務大臣が配慮すれば、川上次長は答へて、先づ一旅團を派遣する者とすべし、總理大臣は旅團の兵は二千人位なることを知る故に多分異議なかるべし、然して混成旅團を出せば實際七八千の兵ありと。茲に其案を翌日内閣に提出して決議となれり。既に出兵して我兵京城に入るに及んでも牙山の清兵動かざりしは、豫期に違うて殆ど困却せり。

 

 ※1■:猖獗(しょうけつ)悪い物事がはびこり勢いを増すこと(「」も「」も暴れる、たけり狂う意)

 ※2■:出師:(すいし)軍隊を繰り出すこと。出兵

 ※3■:淮軍(わいぐん)清朝の重臣李鴻章が同治元年(1862)に編成した地方軍

 

 <つづく>

 (2024.5.4記)