第3909回 『福沢諭吉伝 第三巻』その557<第四 支那の海陸軍(3)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四 支那の海陸軍(3)

 

 (林董の「北洋艦隊の威光」)つづき

 此電報は直に北洋艦隊を腦裏に聯想せしめ、其日の會議は朝八時頃より始まりたれども、夕六時散會の時迄何とも決定せざりし。之を見ても北洋艦隊の威光の大なるを知るべし。當時外務大臣は高壓手段の到底行はれざるを見て、李鴻章をして袁世凱を通じて韓國政府に説諭せしめたる一方にては、海軍練習船が將に品港より解纜せんとするを見て、在東京韓公使が慌てゝ本國に報告したるに困り、終に韓國より償金を拂ふことを以て此問題を解決したり。

 これを見ても政府は朝鮮政略に手を着けるどころか、支那の洞喝に恐縮して、恰も彼の鼻息を窺ふの有様であったことを知るべきである。

 蓋し日本政府が明治十七年以來朝鮮政略を放擲し去り、事ごとに支那の鼻息を窺ふが如き退嬰卑屈の態度を執るに至ったのは、内爭に忙殺せられて他を顧るの餘裕なく、只管(ひたすら)無事平和を旨としたためとはいひながら、其眞情を穿(うが)てば古來の因習の然らしむるところ支那を世界の大國と思ひ込み、竊かにこれを恐るゝの念があったためであらう。

 たゞ政府の當局者ばかりでなく、國人一般も口には支那人恐るゝに足らずと輕蔑の言を放ちながら、心の底には矢張りこれを憚る先天的の思想があったのは否定すべからず事實である。然るに先生は西洋文明の學理を信ぜらるゝこと極めて篤く、前に記した如く、曾て英國に滯在中支那の學士某に會し、支那にては洋書を讀んで其意味を解する者僅かに十一人に過ぎずとの談を聞いて、開國既に百年を經ながらかゝる次第では到底進歩の見込がないと思はれたのであるが、日本は維新以來西洋文明の事物を輸入して百般の改革を行ひ、海陸の軍備は尚ほ不十分なるも其兵器といひ組織といひ、西洋式を採用して訓練怠らざるに反し、支那は其海軍こそいさゝか新鋭を加へたれども、軍艦の操緃には外國人を雇ひ、士官水兵の訓練は甚だ不行屆であり、陸軍に至っては何百萬何十萬と稱するも大半は依然たる舊式兵にして、西洋新式の軍隊の前には百姓一揆の集團のやうなものである、

 

 ※■:解纜(かいらん)船が航海に出ること。ふなで。出帆

 

 <つづく>

 (2024.5.2記)