<前回より続く>
第二 東洋政略論(8)
官途に小吏論あれば民間に過激論あり、いづれが是か非か知るべからずと雖も、當局の諸君は小吏論に耳を假さず、過激論に容喙※せず、虚心平氣に事を考へて心事を一變するときは、今の官民不調和は本來無一物に原因せるものなることを發明するであらう、今日の民間には、老成にして落路の先輩があり、活潑にして有爲の後進もある、これらの人物を政府に容れて廣く人情を和し、朝野正しく一家の如くにして此東洋の一大家を保護するのは、我々國民の快樂ではないか、敵として屈強なるものは味方としても亦屈強である、今日減税を熱論して増税を非難する者も、政府と投合して一大家中の人となり、喜憂を共にするに至れば自から奮って税を納めんことを希ひ、又世間を誘導して説諭に奔走するであらう、如何となれば本業その人物は日本國の良民にして國の重きを知る者なればなりと結論された。
東洋政略論の趣旨は此論説に於て殆ど盡されている。先生は此目的を達するために、先づ朝鮮の獨立より着手せんとし、此事に就ては直接の援助を與ふるまでに努力されたが、明治十七年に於ける獨立黨の計畫失敗以來、日本政府は全く東洋政略の手を収めて退嬰萎縮、只管(ひたすら)無事を謀る其反對に、支那は十七年以來ますます威力を擅(ほしいまま)にして、朝鮮屬邦の主義を着々實行し、我に對して暴慢無禮の行爲を敢てするに至った。我政府が、朝鮮の亡命客金玉均の我國内に在るは朝鮮政府に不快の感を起さしめるのみならず外交上の平和を障害するの虞ありとして、これを國外に放逐せんとした事實の如きも、朝鮮政府に對するばかりでなく、其實は支那政府が金玉均の日本に在ることを喜ばざる意向あるを察してこれを顧慮したものと認めて間違ひなからう。
而して又彼の長崎に來航した支那艦隊の水兵が隊を結んで上陸し散々の亂暴を働いた事件の始末を姑息に附し去ったのも我政略の退嬰萎縮の結果にして、支那の侮を招ぐに至ったのは偶然でなかったのである。
※■容喙:(ようかい)くちばしを入れること。横から口出しをすること
<つづく>
(2024.4.23記)