<前回より続く>
第二 東洋政略論(1)
「通俗國權論」の成ったのは明治十一年である。次いで同十四年に著はされた「時事小言」に於ては、更に進んで西力東侵の形勢より支那朝鮮に對する方策を述べられてゐるが、先生はたゞ著書の上にこれを論ぜられたばかりでなく、東洋政略の着手に就ては和戰共に支那の國情を研究するため其國語を學ぶ者を養成するの必要を認められ、率先慶應義塾に支那人を招聘して支那語の學習を開始したのは明治十二年のことであった。塾員金子彌平は明治初年から塾に學んでゐた人で豫て支那の研究に熱心なので、先生は當時の駐支公使森有禮に紹介して支那に留學せしめ、數年間研究の上歸朝したので支那人の敎師と共に敎授に任じて、學生の數は四十名に及んだ。
其後支那人は歸國し、又金子も他の職に轉じて、適當の講師がなかったのと經費の都合により同十四年にこれをやめることになったが、先生が早くから支那のことに注目されたのは此一事で知るべきである。先生は十二三年頃社友との茶話小集等にもよく支那經略論を談ぜられ、席上左の如き一詩を即吟し社友と酬和※1せられたこともあった。
揚子江流斷有レ鞭
依二糧於敵一不レ須レ銭
扶桑囘レ首三千里
日出天連二日沒天一
これに對する中上川彦次郎の次韻に
重歩二高韻一奉レ酬二福澤大叔一
驅レ馬須レ鳴瑇瑁鞭
乘レ車宜レ駕鐵連錢
古來將相元無レ種
富貴誰言似レ上レ天
といふのがある。先生は「支那が手に入ったら其總督には彦さんが適任であらう」など戲(ざ)れられたといふ。此應酬の如きは固より一時の座興であるが、又これ鬱勃※2たる英氣の現はれであらう。而して先生の東洋政略は、事の順序として先づ朝鮮の獨立を助成するの一事から着手しようとせられ、非常の熱心を以て朝鮮問題のために努力せられたことは第三十五編「朝鮮問題」の項に詳細した通りで、遂に明治十七年の事件にも關係せられたのであるが、朝鮮は着手の手段で其目標は支那であった。
※1■酬和:(しゅうわ)詩文などを作って互いにやりとりすること
※2■鬱勃:(うつぼつ)内にこもって意気が高まって、外にあふれ出ようとするさま、また、意気が盛んなさま
<つづく>
(2024.4.16記)