第3891回 『福沢諭吉伝 第三巻』その539<第一 國權皇張論の由來(4)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第一 國權皇張論の由來(4)

 

 支那を文明の仲間に引入れるには先づ其頑迷思想を打破して腐敗の空氣を一掃せねばならぬ。現に我國も古來その文物を支那から輸入した結果として儒敎主義の餘毒を蒙り、これがために累せられたのである。即ち日本が西洋の文明を輸入せんとするに際しても、其妨害となったものは支那流の思想であったが、幸にして日本人は儒敎の中毒深からずして、其病膏肓に入らず※1、自から國民性に固有せる活潑敢爲※2の氣象があったので、一朝此思想から蝉脱※3して開國進取の方針を確立し、國勢一變駸々乎※4として開明に進み、東洋文明の先進國となったのである。

 されば今支那を導いて文明の仲間に引入れるには、先覺者たる日本の力を以て其腐敗中毒の空氣を一掃するのが第一である。これは前篇の中にも記してあるが、文久二年先生が英京※5ロンドンに滯在中、支那の學士某に邂逅して敎育談に及んだとき、某が「東洋の革新を計るにはお互に西洋の文明を輸入するのが第一である。今日本にて洋書を讀んで自から其意味を解し、又これを他人に敎へ得る者幾人ありや」との問に、先生は「精密の數を擧ぐることは固より難いけれども、余の勘定にては日本國中にて確かに五百人はあらう」と答へて、「扨、支那にては如何」と問返したところ、彼は指を屈しながら歎息して「赤面ながら僅かに十一人に過ぎない」と答へた。

  先生はこれを聞いて竊かに思ふに、支那は開國以來殆ど百有餘年の其間に二囘も外國と戰ひ、和戰共に外人に接して西洋文明の事物を實見しながら、眞實洋書を讀み其意味に通ずる者とては、全國何億の人口中僅々十一人に過ぎないといふ、かゝる有様では到底進歩の見込はないとて、其談話を聞かれた當時から既に望を絶たれたといはれてゐる(第九編参照)。

 

 ※1■病膏肓に入らず:(病膏肓に入る やまいこうこうにいる)不治の病気にかかる。病気が医者の手の下しようもないほど重篤になること

 ※2■敢爲:(敢為 かんい)物事を困難に屈しないてやり通すこと。敢行

 ※3■蝉脱:(せんだつ)俗事から超然として抜け出ること。古い因襲束縛から抜け出ること

 ※4■駸々乎:(しんしんこ)物事がはやく進むさま

 ※5■英京:(えいきょう)イギリスの首都

 

 <つづく> 

 (2024.4.14記)