第3847回 『福沢諭吉伝 第三巻』その495<第五 銅像開被と還曆祝賀(10)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第五 銅像開被と還曆祝賀(10)

 

 (在塾生による還暦祝賀會での福沢の演説)つづき

 武事にして斯の如くなれば、文も亦然り。洋學者の眼中に儒者なく、漢儒が四角な文字を弄んで、祖先以來相も變らず青表紙の經史を講ずるは、寺の坊主が阿彌陀經を繰返すに等しく、之を聞て珍らしからず、苟も實學に益なき限りは、漢文と共に漢儒をも廢す可しと云ひ(當時洋學者の仲間にて漢學者を目するに火燵櫓(こたつやぐら)の名を以てして竊に冷評したるは、其文字の四角なるを嘲りたることにして、罵詈も亦甚だし。新古兩者の衝突なからんと欲するも得べからず、是れまでの頂上に達したることなれば、鎖國の時代に洋學者が身を危ふしたりと云ふも、一方より見るときは自から招きたる災にして、訴る所なきが如し)、尚ほ進んでは三百年來の門閥政治に對して不平を抱くこと甚だしく、諸藩の大名と云ひ其重役家老奉行と云ひ、祖先の智勇にも似ず今昔正しく反對にして、智恵も無く勇氣もなき者が、最上の地位を占めて、社會の上流に居然たり。

 我々洋學者流は人の智徳を問ふて門閥の空名を知らざるものなり。諸藩士にして苟も藩政に滿足せざる者は脱藩こそ男子の事なれとて、竊に之を教唆し、又實際に周旋したることもあり。然り而して其洋學者の目的如何を問へば、是れと取留めたる方略成算あるに非ざれども、唯西洋の書を讀み其文物習俗を聞見し、其富國強兵の現狀を明にして、千思萬慮、理論より推すも又實際に徴するも、西洋の新主義に非ざれば一國の獨立を維持するに足らずと信じて、之に附するに文明開化(シヴヰリジェーション)の名を以てし、苟も此主義に背き又これを妨るものは、事物の性質を問はず、其大小輕重に拘はらず、一括して除き去らんとしたることなれば、當時の人心に如何の感を爲す可きや、恰も武陵桃源※1の仙會に醉漢の亂入したるに等しく、學者の亂暴虚誕※2妄説として驚くのみ。

 

 ※1■武陵桃源:(ぶりょうとうげん)俗世間からかけ離れた平和な別天地、理想郷のこと(「武陵」は地名、中国湖南省にある。「桃源」は世俗を離れた平和な別天地。武陵の漁師が、川をさかのぼって桃林に入り、山腹の洞穴を抜けたところに、美しく桃の花が咲き乱れる別天地があった故事から)

 ※2■虚誕:(きょたん)おおげさにいうこと。でたらめ

 

 <つづく>

 (2024.3.1記)