第3843回 『福沢諭吉伝 第三巻』その491<第五 銅像開被と還曆祝賀(6)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第五 銅像開被と還暦祝賀(6)

 

   奉賀福澤先生第六十一囘誕辰の文

 健康は人生幸福の一大要素なり。凡そ人として此の一要素を缺かば、王公貴人も羨むに足らざるなり、陶朱犄頓※1も願はざる所なり。故に人の世に居る、僅に一月一年の健康尚且之を祝するに足る。況んや之を十年に持續し、之を二十年に持續し、長へに之を六十年に持續するに至ては、人の之を羨望欽慕するが又宜(むべ)ならずや。

 明治二十八年十二月十二日は我福澤先生第六十一囘の誕辰に當れるを以て、先生の知友門生等、昨年日清事件の爲め擧行を果さゞりし還暦の壽(じゅえん)を東京芝公園紅葉館に張て、先生令室及び令子令嬢令孫の臨會を乞ふて將に壽觴※2を奉らんとす。先生壽已に耳順※3に躋(のぼり)て健康猶壯年者の如し。健歩能く一日十里の道を行て疲勞なく、健筆能く一日數篇の文を章して惓怠を覺えず、而して又能く健食すれども其度を踰(こ)へず。先生の健康は實に之れを考妣※4に稟(う)くるも、亦身躬ら攝生の秘訣を得て幾微の妨害も慎で之を避け、以て今日あるを致せるなり。孟軻(もうし)云へるあり、天下の達尊三ッ、徳一ッ、齒一ッ、爵一ッと。先生の徳望既に内外に尊し、年齒亦耳順に超ゆ、爵位の如きは先生性質淡泊之れを得るに意なきのみ。先生の世に尊重せらるゝもの固より其所なり。

 回顧すれば先生の我慶應義塾を創設するや、三十年前に在て封建割據、依然として存在し、攘夷の議論方に盛強にして、文明の學術は世人の心田※5に殆んど未だ萌芽を見ず。然るに先生汲々孜々※6爰に播種し爰に耕耘(こううん)し、遂に以て今日の開花結實を見るに至れり。先生の樂知る可きなり。今後三十年尚ほ先生の深奥なる學識經驗を藉(か)らば、此の果實は更に充分の成育を遂げ、纍々※7相重なり珠玉も及ばざるの美觀佳景となるべきやは、殆んど想像だも及ぶ能はず、先生矍鑠※8として之れを賞觀し、以て老後の歡樂となさば世上何等の樂みか之れに過ぐるものあらんや。

 先生の如きは實に人世最上の歡樂を享くるの人なり。然りと雖ども此の樂みや、先生の獨り私に享受するものにあらずして、世人と齊(ひと)しく之れを享有し、又其知友及我徒門生輩に分與して惜まざる所なり。是を以て今月今日壽觴を奉して先生の健康を祝するは獨り先生の知友及門生等數百人の私情にあらずして、實に本邦文明の爲めに先生の壽康※9、無彊※10を祈るの公情なり。先生既に健康を保つの秘訣を得。我が徒又何をか云はん。謹んで先生の萬歳を祝す。

  明治廿八年十二月十二日

    祝賀還暦會員四百五十名總代

        門生   小幡篤次郎

                拜首敬具

 

 ※1■陶朱犄頓:(とうしゅ いとん 猗頓?)巨万の富、富豪、大金持のことをいう(中国春秋時代、陶朱は金満家として知られ、猗頓は魯国の富豪であったところから。後世「陶朱猗頓」と連称して大富豪の形容として使用されている)

 ※2■壽觴:(じゅしょう)祝いの酒。寿杯

 ※3■耳順:(じじゅん)数え年六十歳

 ※4■考妣:(こうひ)亡父と亡母(「考」は亡くなった父、「妣」は亡くなった母)

 ※5■心田:(しんでん)内心、心の中。考え(心を田地にたとえた語)

 ※6■汲々孜々:(きゅうきゅうしし)飽きたり怠けたりせず、熱心に励み努力を続けること(「汲々」も「孜々」も一つのことを熱心に続けることを意味する語)

 ※7■纍々:(るいるい)積み重なっているさま。連なり続くさま

 ※8■矍鑠(かくしゃく)年をとっても、丈夫で元気のいい様子

 ※9■壽康:(じゅこう)長寿で健康

 ※10■無彊:(むきょう)限りない長寿

 

 <つづく>

 (2024.2.26記)