第3815回 『福澤諭吉伝 第三巻』その463<第二 學事の改良(7)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第二 學事の改良(7)

 

 而して金の使用法に就ては、同じく中上川に寄せた書中に左の如くいはれてゐる。

 例へば塾にしても、今度金が出來ると云へば、早や手に握りたるが如く思ひ、金を遣ふ事ばかり工風して、無くても濟む敎師を雇込むなど、随分堪難し。今日の處にても敎師中三四人は全く不用なり、不用なれば一時金を與へて颯々と片付けろと云へば、亦その決斷もなし。目下老生の心配は募金の成否よりも、其金が出來たる上にて使用法に心配なり。十萬とか二十萬とか云へば恰も無盡藏の如く思ひ、何事を仕出すやも分り不申、蓋し貧書生の胸中大金を容れて平氣なるの量なきものならんのみ。

 小泉は就任以來、一方に資金募集のことに力を用ひると共に、一方に於ては鋭意學事の改良に着手した。義塾は從來慶應義塾社中と稱してゐたほどで、假令ひ新入學の者でも、一度び入社すれば即ち社中の一人となり、前後上下の隔てなく、たゞ被敎者と敎授者との區別があるのみで、其間に面倒なる檢束法もなく又むづかしい規則もなく、頗る圓滑に過ぎて來たのであるが、入學生殆ど一千名に達し敎員の數も増加して手の廣がるに從ひ、單に習慣手心のみでは多數學生の管理が出來なくなったので、一定の規則を設けて就學勉強を促さゞるべからずとて、從來の規則に多少の修正追加をしたところが、學科の採點法の事から當事者と學生との間に意見を異にし、義塾に珍らしい紛擾(ふんじょう)を見るに及んだ。即ち從來試驗の及落は敎員の合議によって決定したものを、新規則に於ては採點法を定め、各科共六十點以上を得なければ及第が出來ないことにした。

 試驗の及落を點數によって決するのは普通の方法であるけれども、學生等が不平を唱へてこれに反對した要點は、各科の平均點數六十點といふことならば兎も角も、毎科必ず六十點を得なければ落第といふが如きは、常識を重んずる我義塾の試驗法としては其意を得ないと主張して、新規定の撤囘を求め、當事者は兎に角一學期だけ此方法を試みた上にて取捨すべしとて互に執って相下らず、遂に學生の同盟休校となり事態すこぶる穩かならざることゝなったので、先生も止むを得ず自から手を下してこれを解決することゝなり、學生中の重立った者を呼寄せ、「今囘の事は畢竟意志の疎通を缺けることより起ったもので、いかにも殘念至極の次第である。諸君の父兄にしても少なからぬ學資を出して東京に遊學せしめて置くのに、毎日休校した爲すこともなく騒ぎ𢌞ってゐると聞いては決して喜ぶまい。又塾の社頭たる自分としても、何とも申譯がない次第だから、諸君も深く此邊のことを考へて輕擧盲動を謹むやうにしたい」と懇々條理を盡して説諭せられたので一同承服し、問題は無條件にて先生の裁決に一任することになり、先生を始め敎職員學生一同塾の運動場に集って園遊會を開き、數十日に亙る休校騒ぎも和氣藹々(あいあい)の裡に目出度く解決を告げた。

 これは二十一年二月頃のことで、義塾に於てかゝる騒動は啻に空前であるのみならず、恐らく絶後のことであらうが、其騒動も先生の一言で丸く収ったのである。

 

 <つづく>

 (2024.1.29記)