第3772回 『福澤諭吉伝 第三巻』その420<第四 家族的旅行(3)> | 解体旧書

解体旧書

石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。大正12年6月、慶應義塾評議員会は本書の編纂を決議し、石河に託した。9月に旧図書館内に編纂事務所を開設。それから7年有余を経て、昭和6年3月完成した。

<前回より続く>

 

第四 家族的旅行(3)

 

 又明治二十八年三月には、夫人竝に令嬢二人を伴ふて廣島に行かれた。當時は日清戰爭中で大本營は廣島に在り、文武の大官いづれも此處に參集し、軍國の機務は一切此地にて行はれてゐた。しかも此三月には李鴻章が清國政府の全權として講和談判のために馬關に渡來するといふ際であったから(三月十九日先生が廣島出發の日は李鴻章が馬關に到着した日である)、先生の廣島行は何か意味でもあったやうに思ふ者もあらうけれども、實際の用向は先生の三女俊の嫁した清岡邦之助が郵船會社の宇品出張所に在勤してゐて家を持つことゝなったので、先生は夫人と共に令嬢を送って行かれたのである。

 滯留は僅かに中二日間で、時が時、場所が場所であるから、固より人を訪問さるゝこともなく、又歡迎會などの催しもなく、同地に居た數名の塾員が旅館に來候したのみであった。先生は廣島から歸らるゝと間もなく、同年四月靜岡で同窓會があるといふので、これに出席するため同地に行かれた。これは固より家族的旅行ではなかったけれども、當時同地に居た塾員飯田三治に贈られた書狀は、前の廣島行の次第をも述べ且つ旅行中旅館の取扱方から起居飲食に關する注意まで記されてあるから、左に掲ぐ。

  (前略)靜岡同窓會の義は兼て御話も承り、私方には是れと申して差支無御座、何月何日にてもその以前一寸御報知被下候得ば可罷出、先達長谷川善太郎氏出京來訪の處、不在にて面會不致、小幡氏よりい才を承り、同氏より長谷川氏へ文通致し候筈、又その前後に藤枝の甲賀(宮本)菊太郎氏も拙宅へ參り面會、同窓會の話承知致候。實は老生も次第に老境に入り、折々旅行の養生致候心得にて、既に過日の廣島行も唯娘を送屆候までの用にて、必ずしも老生が參らずとも相濟むことなれども、事に托して數日の旅行を試候義に御座候。故に今度の靜岡行、舊友の御招待に應ずるとは申ながら、實は春暖の好季節、閑に地方の勝景を見物など致し、數日の保養と致し喜こび居候義に御座候。

 

 <つづく>

 (2023.12.17記)