第2661回 『福沢諭吉伝 第一巻』その345<第五 大童の危難を救ふ(1)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

≪第五 大童の危難を救ふ(1)≫

 

大童との交際は右の如くして、其後大童が藩を脱して東京に潜伏中危難に迫ったとき、先生は大に奔走運動して其危難を救った。それは明治三年(1870)のことであるが、記述の便宜のため茲に記す。維新の時仙臺の家老に但木土佐といふ傑物があって藩の政治に當ってゐたところが、會津征討に際し奥羽諸藩が聯盟して官軍に抵抗したのは仙臺が盟主で其主謀者は但木土佐と今一人家老の坂英力の二人であるといふことで、謝罪降伏のとき此二人は東京に護送せられて罪に伏し、其處分はこれで落着を告げたのである。然るに翌明治二年に至り、藩内に於ける黨派の軋轢から、仙臺では佐幕派の餘類が勢を得て再び不穏の企があるといふことを政府に密告した者があったので、政府では大納言久我建通を鎮撫使として仙臺に赴かしめたところ、一方の黨派はこれを機會に反對派の罪状を鎮撫使に具申し、七名の者を死刑に處した。其具申書中には大槻磐渓なども死刑者の中に在ったが、鎮撫使の一行は大槻の如き老儒顕學を刑に處することには同意しなかったので、死一等を減じて禁錮に處することになった。

元來政府は仙臺藩士の密告により不穏の企があるといふので鎮撫使を派遣したものゝ、なるべく事を穏かに始末しようとして、久我家と伊達家とは姻戚関係であるから、久我ならば事を荒立てぬであらうと考へ、これを鎮撫使として派遣した次第である。ところが鎮撫使が到着して見ると、實際には何等不穏の形跡もないのに、一派の輩が既往の罪をいひ立て、執政和田織部を始め七名の死刑者を出したのには、鎮撫使も事の意外なのに驚いたといふことである。

最初、大童は奥祐筆※1をしてゐた出納役の松倉良介(後に恂と改る)と共に但木を助けて兩人共仙臺と東京との間を往來して奔走周旋したことがあるが、但木、坂の兩家老が主謀者として罪に伏して事は落着したのである。然るに此度久我鎮撫使の派遣に際し更に七名の死刑者を出したからには、但木の参謀ともいふべき大童、松倉の兩人は固より免がるべからざる身であった。松倉は前年既に脱走して踪跡※2をくらましてゐたが、大童は鎮撫使の入國を聞き事の容易ならざるを察して早くも身を隠してしまったので、此時兩人は家名没収といふ缺席裁判を受けたのである。

 

※1■祐筆:(ゆうひつ)貴人のそばに仕える書記。後世の武家で文書や記録を司る職(の人)。右筆

※2■踪跡:(そうせき)足跡。あとかた

 

<以下、続く>

2020.12.1