<前回より続く>
<第四十八編 逸話【附記】先生の遺文(1)>
〇先生の遺文(1)
左の一編は先生の遺筐中に存した未發表の論文にして、先生が夙に洋學を講じて西洋文明の主義を天下に鼓吹し、又漢儒を排斥し、門閥を攻撃し、獨立自由の民権論を首唱した次第を自から記されたもので、明治十五年頃の執筆と推定せらるゝのである。而して文中「此十五年間を顧みるに、我輩の思想に於て、蓋し初段は掃除破壊の主義にして、第二段は建置經營の主義なり」とあるも、そのいはゆる初段のことのみを記して第二段に及んでゐないのを見ると、恐らく未完の草稿のやうに思はるゝけれども、先生の主義思想の來歷を知るに足るべき文字であるから、恰も本書の跋としてこれを巻末に掲ぐることにした。
公議與論とは天下衆人の多數にて是認する所の主義を指して云ふものなり。必ずしも一定不變にして天然に備はるものに非ず。例へば服飾の流行の如し。今日より六七年前、男女衣服の紋所は小なるを貴びしもの、漸く之を大にして一層又一層其底止する所を知らず。徳川政府拜領の紋服、牡丹餅葵の大なるに至りしものが、維新の頃より頓に復た小變して、今日は殆ど一厘錢の如きものあり。此他龜甲の濃赤は廢して淡白と爲り、染色の萌黄は止て茶と爲り、又御納戸と爲り若松に鶴の裾模様は殆ど禁制の如くに棄たれたり。何れも皆服飾の公議與論にして、天下男女の多數これを是とし之を非とすれば、其勢留む可らずして然るものなり。然るに此流行なるものは元と人間世界の人爲に出たるものにして決して天然に非ず。去年はコレラ流行して今年は然らず當春は風邪流行して夏は脚氣の流行するが如き天變にも非ず、又時限を定めたる循環の流行にも非ざるや明なり。既に天然に非ずして人爲なること明白なれば、其これを作爲したる人の所在も亦明白なる可きの理なり。
人の言に云く、西洋諸國に於て年々歳々服飾の時様を變換する其起源は佛蘭西の首府巴理の裁縫師これを司ると。又日本にては其起源常に東京に始り、然かも東京中の俳優又は藝妓より來ると云ふ。夫れ或は然らん。然らば則ち巴理の裁縫師、東京の俳優藝妓は、服飾の公議與論を始造して、歐羅巴全洲を制し、日本全國を支配して、意の如くする者なり。其勢力實に偉なりと云ふ可し。
<つづく>
(2026.5.2)