<前回より続く>
<第四十八編 逸話(194)雇人に對する態度(つづき)>
雇人に對する態度(つづき)
又或時先生の飼犬が狂犬になり、雇人等を咬傷したことがある。明治三十一年八月十日の「時事新報」に先生自から記された左の雜報が載ってゐる。
〇狂犬 芝區三田なる福澤家の邸内に飼ひ置ける雜種灰色斑の牝犬は數日前より擧動荒々しく、去る七日には頗る異状に見えたれば、同邸の雇人高中萬藏と云ふ者嚴しくこれを繋ぎ置きしに、犬は再三繩を切りて逃げたれば、更に午前十時半頃近寄りて頭を撫で其機嫌を取りながら繩をかけんとしたりしに、犬は俄に狂出し、萬藏が左の手首に咬附き四箇の齒痕を留めたれば、直ちに傳染病研究所に入院せしめたり。依て同所にては先づ萬藏に治療を施したる後に、同邸より托し來れる件の犬を診察したるに、恐水病※1の兆候著しければ、直ちに毒殺したりといふ。又同邸の雇人川村虎吉も其朝同犬の爲めに右足背に二ヶ所まで咬附かれたるよしにて、是亦直ちに入院せしが、何れも微傷なれば左したる事はなからんとのことなり。尚ほ三田界隈には昨今二三の野犬出没し其状甚だ怪しきより、人々は頻りに取押へんと試むれど、今に其運に至らざるよしなるが、同所にて昨年八月頃狂犬の現はれしことあり、其病毒の今に盡きずして斯は折々出現するものならんと云へり。
此時先生は直に萬藏を傳染病研究所へ入院せしむると共に、左の書翰を研究所の醫師に贈って十分の手當を依頼せられた。
拝啓。拙宅狂犬の一條に付ては不容易御手數を煩はし誠に恐入候。殊に老僕萬藏咬附かれ候事誠に災難、致方も無之、唯手當の御療治を願ふのみ。此僕は十數年來拙宅に居て所謂忠僕なり。何卒首尾能全快いたし候様呉々も奉願候。將又本人へも醫命の重きを申含め、一切御差圖の通り服從可致様申付置候間、思召次第の御處置奉願候。右相願度匇々如此に御座候。頓首。
三十一年八月七日 諭吉
研究所
國手※2御中
※1■恐水病(きょうすいびょう)狂犬病に同じ
※2■國手:(国手 こくしゅ)すぐれた技術を持つ医者。名医。「医者」の敬称
<つづく>
(2026.4.30)