カジキフライ、インドネシアのローカル学校に入る | UWC ISAK 生活日記

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UWC ISAK Japanの生徒による非公式ブログです。
「一度しかない人生。自分の個性を生かして思い切り生き、自らの立つ場所から世界を変える。(UWC ISAK Japan Webより)」

みなさんこんにちは!インド洋カジキフライです。今回は前回書いたブログの続きを紹介します。前回のブログ:インド洋カジキフライの育った街

 

日本語しかできなかった私は現地の仏教系の幼稚園に通い始めました。初めてのインドネシア人しかいない集団に入り、文化の違いにびっくり。

 

先生はとても優しく、中国系の友達もいましたし、ネイティブインドネシア人の友達もいて、新しい人々に囲まれて生活が始まりました。ある日のこと、幼稚園の門の外に、ゆでたピーナツを売る行商のおじさんが座ってピーナツを売っていました。友達はピーナツを買ってきて、幼稚園のブランコに座り、口で殻を破って食べた後、大変自然な動作で殻を地面にポイ捨てするのです!さて、その友達を見てどうすればいいか困りました。母からずっと教わってきた日本人としてのマナーや価値観と、先生や友達のインドネシア人としての価値観が自分の中で混乱してしまって、自分を自由に表現することに重みを感じてしまいました。結局その日は家に帰って母に相談しました。母は絶対に真似してはいけないと言いました。

 

いつも長期のお休みには日本の祖母の家ですごすのですが、そんな中で、毎年日本に早く帰国したいなと考えるようになりました。小学1年生の時、母が弟の出産のため、日本へ6ヶ月も帰国しなければいけなくなりました。さあ、インドネシア語が堪能とは言えない私とインドネシア語しかできない父だけが家に残ることになりました。その時点で私は死んだと思いましたが、クリスマスプレゼントでもらったクマのぬいぐるみのヘルマンくんが精神的に支えてくれて、掃除婦さんが家事を手伝ってくれました。陽が高いうちは学校に行き、夕方には夜まで塾に通っていました。塾では言語につまずいて、いつも最後一人きりになるまで宿題や暗記が終わりませんでした。自分なりに頑張って、数ヶ月でクラスでトップの成績になり、そのことを教師から聞いた時は嬉しくて学校に迎えにきた父に報告しました。

 

家では孤独感で誰もいない家の中でべそをかき寝そべって、絵を描いている間に絵を描くことが本当に好きになってしまいました。

 

サバイブしながらも日本人でもインドネシア人でもない自分の価値観を大事にしていきました。

 

色々な意味で孤独の中、それでも日本が好きだったので日本がよく恋しくなりました。

 

中学に入ると日本に行きたくなる気持ちもだんだん減ってきました。それはだんだんと慣れてきたインドネシア人との人間関係や、ペラペラに喋れるようになったインドネシア語のおかげでもあります。中学を卒業して日本への帰国が決まった頃、フライトの日の一日前は仲良し四人組の他の三人がサプライズで家まで来てくれて、日が暮れるまで一緒に語り合い、充実した時を過ごしました。今でもあの日の印象は心に深く残っています。有り難かった。小学校では友達すらまともに作れなかったのにサプライズパーティまで開いてくれるなんて、自分の中では感謝と恥ずかしい気持ちがごっちゃに混ざっていました。

 

というわけで、中学生になってから自分で価値を判断することも増え、自分は何者だろうと模索する中、母親から詰め込まれた日本人としての価値観も薄まっていきました。

 

高校進学も日本にある学校にしようと思ったのは母から受け継いだ日本人としての価値観の行方を探索するためでもあるのかなと思います。インドネシアの中学を卒業した後、日本はどんなものだろうかと、日本の公立中学校の3年生に編入しました。小学生のころ、何回か体験入学で日本の小学校には通いましたが、中学校は未体験ということでビクビクしていました。

 

インド洋カジキフライの日本の中学校へのピルグリム体験は次回に続く。(シュッ)


 

インド洋カジキフライ